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0116先週の講壇_ヨハネによる福音書 2 章13~22 節 「祈りの家なる神殿」

牧師 松矢龍造


イエス様が神殿に行かれると、神殿での境内において、異邦人の庭から異邦人が締め出され、羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちのいる場所になっていました。そして異邦人すなわち、ユダヤ人以外の外国人たちが礼拝することが困難になっていても、ユダヤ教の宗教指導者たちは、気にもかけていませんでした。神様は旧約時代から、礼拝や祈りの場所がユダヤ人だけでなく「すべての民の祈り家」と呼ばれることを求めておられました。

イエス様は、縄で小さな鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出され、両替人の金をまき散らし、その台を倒されました。エルサレムで行われていた過ぎ越し祭には、遠くから巡礼者が大勢集まってきます。その際、犠牲の動物を連れて来るわけですが、遠方から連れて来ることが出来ない人々は神殿の近くに来て、犠牲の動物を買うことになります。犠牲の動物がないと、神殿で礼拝したり祈ったりできないので、法外の値段をした動物を買わざるを得ませんでした。さらに神殿に捧げるお金は、外貨は汚れていて、きよいユダヤの貨幣でなければならないという偏屈な理由が当時なされていたため、両替においても法外の為替レートによって莫大な利益を得ていました。その一部を、ユダヤ教の指導者に賄賂として貢いでいましたから、ユダヤ教の指導者たちは、見て見ぬふりをしていました。イエス様は、この神殿の有様が、今の民の信仰的な姿として写りました。祈りと礼拝の場が、不正な利益と商売の家として用いられている事に対して、聖なる憤りを覚えておられました。二つの情熱が対比されています。一つは、イエス様が祈りの家を思う熱心さと、もう一つは、商人たちの欲望に対する情熱が対比されています。イエス様が、熱心に神様と神殿のことを思うことが、人々がイエス様を十字架で殺そうとする熱情となっていきました。

現在は、神様が宿っている場所を神殿と呼んでいます。それは建物と共に、キリストを信じて内側に、ご聖霊を宿しているキリスト者の体も神殿と言われています。イエス様は、公生涯の最初と最後に、神殿の宮きよめを行われましたが、それは建物だけのことではなく、私たちの体と心の聖別をも意図されていました。私たちの体が、ご聖霊の宮とされたなら、自分の体を主に明け渡して、絶えず、きよめられていくことに心を用いることが大切です。そして私たちの内側には、私たちと霊的に共にいてくださる復活のキリストが臨在されています。ならば、主の聖なることに倣って、ご聖霊によって、聖なる心と生活と、行動となりますように。そして自分の体と人生が、神様の栄光と、神様と人への愛のために、用いられることになりますように。

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