牧師 松矢龍造
弟子 達 は、明日イエス様が十字架につけられというのに、その時になっても、なおイエス様が言われる言葉が分かりませんでした。イエス様は、気の遠くなるような忍耐と深い寛容によって弟子達 に語りかけておられます。「しばらくすると、あなたがたはもう、わたしを見なくなる」とは、イエス様が十字架で死なれて見えなくなるということです。そして「またしばらくするとわたしを見るようになる」とは、 一つはイエス様が十字架につけられ、墓に葬られ、陰府に下り三日後に復活して見えるようになるということです。二つ目に、天に昇天された後、世の終わりに再び来られる故に、見るようになるということです。そして三つ目に、天に昇られた後10 日後に、ご聖霊が降臨されて御聖霊によってイエス様と霊的にお会いできるということです。
イエス様は、かつて何度も、御自身の十字架の死と復活を、語って来られました。しかし真理の御霊様が来られないと、弟子たちも私たちも、 イエス様の言われたことが分からないのです。
イエス様が 死なれた時の悲しみは、女性の産みの苦しみに匹敵すると言われています。しかしイエス様の復活や再臨、御聖霊による臨在を見たら、喜び、その苦痛を思い出さないほどです。
イエス様によって、悲しみから喜びに変えられることは、この世からのものではなく、誰も奪い去る者がいないものです。見せかけでも人間の力によるものでもありません。イエス様の与えられる喜びは、すべてのクリスチャンに約束された贈り物です。主イエス様は、父なる神様と、私たち人間の間で仲保者となられました。ですから、主イエス様の御名によって祈ります。それは、私たちに与えられた賜物であり、特権です。イエス様が、地上におられた時には、イエス様が共におられたので、イエス様の御名によって祈る必要がありませんでした。
ですが天に昇られたので、イエス様の御名によって祈ることが必要となります。宗教改革者の一人、マルチン・ルターは言われます。「わたしたちの祈りが、もし私たちの自らの価値に上になされたものなら、
たとえ私たちが血の汗を流して祈りに勤めるとも、それは無価値である。」キリストが救いをもたらす故に、主の名によって求める者に、救いが与えられます。主イエス様によって、新しい時代が始まり、今や、すべての信者は、父なる神様に、自ら親しく直接、話をする新約の祭司とされています。また御聖霊によって、直接、神様の聖言を教え
ていただけます。 加えて 御聖霊によって、世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。そして私たちの今の悲しみは、後に永遠の命の喜びに変えられます。
どんな人も、キリストの愛によって、悲しみから、喜びに変えて頂けます。その喜びを、奪い去る者は、誰もいません。あなたも、キリストによって、父なる神様と交わり、御聖霊によって永遠の喜びと、永遠の命に預かって行きませんか。
Comments