牧師 松矢龍造
普通、誓願は苦境に陥った時、神様の助けを要する場合に立願します。また神様の恩寵に対
する感謝の表現にも誓願がなされました。誓願は、積極に何かをすることであるのに対して、物断ち積極的に何かをしないということです。律法では、誓いを強制してはいません。この民数記の前には、男性に対する誓願のことを扱っている聖書箇所がありますが、この民数記の30章では女性に対する誓願の規定が展開されています。古代では、契約書がない場合、人の制約した言葉が、署名と同じ拘束力を持っていました。そして通常、一度、誓願を立てると、取り消すことが出来ませんでした。
第一に、人が、主に対して、誓願を立てるか、あるいは物断ちの誓いをするならば、その言
葉を破ってなりません。古代の例では、子どもが与えられなかったハンナという女性が、誓願をした場合がありました。サムエル記上1 章10 節11 節。第二に、娘や、妻が主に誓願か物断ちの誓いをするなら、父親か、あるいは夫が、その誓いをした日のみ吟味して取り消すことが出来ました。これは、父母に従う、あるいは妻は夫に従うという、律法における家庭の秩序が優先されることを示しています。女性は、自分が立てた誓願、あるいは物断ちの誓いに対しても、父親や夫に仕えることを優先させなければなりませんでした。この父親や夫の吟味する内容として、父親や夫の礼拝生活が崩れてしまわないようにすること。また家庭全体の生活を大きな危険にさらさないこと。そして健康をそこなうほどの物断ちの誓いをしないこと。これらに抵触するなら、必ずしも聖書的ではありません。第三に、不必要な誓願や、物断ちの誓いをしてはなりません。士師記にあります、エフタの例は、不必要なケースです。戦いに勝利させて下さるなら、家に帰って来て、出会った最初の人物を捧げるという誓願でした。第四に、やもめ、すなわち未亡人や、離婚された女性の場合、父親や夫による制約から離れたところで成立しているので、誰も破棄することが出来ません。第五に、現在的には、神様の御心にかなった誓いは、存在します。それは神様が許されているものです。結婚の誓約、洗礼の誓約、牧師の誓約、長老や執事の誓約なのです。第六に、広い意味での誓いは、神様の御心に聴き従う、日々の信仰生活が、そのまま物断ちであり、祈りであるということです。
誓願や、物断ちの誓いを、むやみにしてはなりません。むしろ日々、神様が神の言葉なる聖
書を通して、ご聖霊によって語られる言葉を、自分のものとして聴き、これにご聖霊の力を頂いて聴き従う。それが誓願や、物断ちの誓いにふさわしいのではないでしょう。神様が言われることに「然り」、言われないことには「否」として、神様に信頼して、ご聖霊の助けを求め、その導きに従って行きませんか。
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