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0410先週の講壇_ヨハネによる福音書6 章1~13 節「イエス様は天からの永遠の命のパン」

牧師 松矢龍造


ウクライナにロシア軍が侵攻して世界中が心を痛めています。国内に残り防戦する男性たち。国外に避難している女性や子どもたち。必要なのは、物理的なパンと共に平和と希望ではないでしょうか。かつて荒れ野をさ迷っていたイスラエル民に、主は物理的なパンと共に、御言葉による霊的なパンの必要を語られました。申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」

主イエス様は、神の国の福音を語られていましたが、人々の肉体の必要に関しても配慮なされるお方でした。パンの奇跡は、迫害を受けているキリスト者たちの生活のことも、神の国と神の義を先ず求めなさい、そうするならば、主はすべての必要を与えてくださる。この全知全能の主なる神様の配慮を受け留めることになりました。

イエス様がフィリポに本当に求めたのは、物理的なパンを求めたのではなく、この問題解決の為に信仰を求められたと言ったのは、古代の神学者アウグスティヌです。二百デナリオンとは、銀貨200 枚、200 日分の賃金です。現在の単位では約200 万円位でしょうか。加えてたとえ200デナリオンのお金があったとしても、男だけで5 千人、女性や子どもたちを含めたなら約2万人分のパンを一時に集めることは不可能です。このパンと魚の奇跡を通して、第一に、イエス様の時代から千年以上も前に、シナイ山から荒れ野の砂漠のようなところであっても、神様はイスラエルの民に、マナとウズラを奇跡によって与えられたことがありました。そのことを想起させたのでしょう。第二に、イエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられたことは、聖餐式を初代教会の人々は想い起こしたでしょう。第三に、イエス様は、奇跡を行われる時、普通は、人々を通して働かれることを選ばれます。その一つは、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年です。少年が用いられたことから、私は若すぎる、逆に年をとりすぎている。わたしには、そんな力はありません。そのように思っている人たちに対して、誰でもイエス様に仕えることはできないと、決して思わないように言われているのではないでしょうか。第四に、イエス様によって与えられる恵みは、新しい霊のイスラエルである教会にとって十分に満たされるものであるということです。第五に、主イエス様は政治的軍事的なメシアではなく、神の御子キリストであり、私たち人類を罪の赦しと、滅びよりの救い主であるということです。フィリポのように、自分の力で解決しようと、あがくのでなく、神様とその口から出る命のパンに養われながら、自分の人生を主に委ねてゆく、恵みの人生を歩んでいきませんか。

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