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0508先週の講壇_ヨハネ福音書6 章41~59 節「イエス様を霊的に食べるなら永遠に生きる」

牧師 松矢龍造


イエス様は、私を食べるなら永遠に生きると言われました。古代の著名なアウグスティヌスは「信じたということは、食したということである」と言っています。私たち人間にとって食べることや飲むことは、最も日常的で分かりやすい事です。それほどに、神の御子イエス様を私の救い主として信じることは日常的なことであり、最も分かりやすい表現が、食べることや飲むということだったということでしょう。

信仰には、二面性があります。一つは、父なる神様が、その人をイエス様のもとに引き寄せてくださらなければ、誰もイエス様のもとに来ることが出来ないということです。そこには父なる神様の愛による選びと、神様の主権があります。そして信仰にはもう一面があり、私達人間の側が、自由意志をもってイエス様を信じるという応答責任があるということです。いわば神様の主権と、私達人間の自由意志、この二つを同時に理解することは、人間の理性では出来ません。しかし聖書とイエス様の言葉は、信仰にはこの二面性があると言われているので、それを素直に信じるだけです。イエス様は天におられて、ただ一人、父なる神様を見たお方です。そして父なる神様に引き寄せられる者は皆、主イエス様の教えを素直に聴く為にイエス様のもとに来ます。聖餐式において、私たちの過去、現在、未来のイエス様を覚えることが大切です。過去というのは、イエス様の私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死にて葬られ陰府に降り、三日目に復活された事実を覚えることです。また現在とは、聖餐式の時のみパンとぶどう液は、霊的にキリストの体となり、それを食する者は霊的な永遠のキリストの体を霊的に食し、霊的にその血と命を飲んでいることを覚えることです。そして未来とは、肉体の死後に復活させて頂いて、天の御国に入れられ、イエス様と共に、天の祝宴に預かる希望を覚えるということです。物理的なパンをいくら食べても肉体の死は来ます。しかしイエス様を信じて霊的にイエス様の霊の体を食する者は、永遠の命が与えられ永遠に生きます。そして信じた人たちは、聖餐式を通してイエス様と霊的に近しさ親密さを感じながら、相互内在性を実感してゆきます。

イエス様を信じる者にとって墓は永遠に至る門であり、永遠の始まり に過ぎません。そのことを思いつつ、主イエス様を讃美し、主イエス様の十字架と復活を、隣人に告げ知らせて行きませんか。

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