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0529先週の講壇_ヨハネ福音書7 章14~24 節「主イエス様の御言葉の真実性」

牧師 松矢龍造

じられないという面と、信じないと知ることが出来ないという二つです。加えてこの世に愛や同情がない批判くらい、人を誤らせるものはないでしょう。同じように主イエス様が、どのような方であるか。早急に判断してはなりません。またうわべだけ裁いてもなりません。聖書66 巻の全てから、祈ってご聖霊の照明の光を頂いて、イエス様を見てゆくことが、誰にでも必要です。

イスラエルの三大祭りの際には、その期間に多くの人々が、エルサレムを訪れ、神殿で犠牲を捧げに来ていたので、イエス様は大勢の人々に、神の国と福音について語りかけ教えることが出来ました。神様の真理は、神様の御言葉に服従してこそ分かるものであり、従う時にさらに多くの神様の真理を悟り得ます。すでに与えられた光に従って歩む者は、さらに大いなる光が与えられる。これが神の国の法則です。本来、従順こそ霊的な知識に至る道です。神の栄光と訳された原文の言葉は、神様の聖、義、愛、贖罪と救いなどの業の卓越性のことです。自分の栄光を求める者には、不信実であり不義があります。しかし神様の栄光を求める者は、真実な人であり不義がありません。

律法には、「殺してはならない」とあります。であるのに父の栄光を求めるイエス様を殺そうとするのです。このユダヤ人たちの殺意は、論理でなく感情です。その場合、論理は後から組み立てられるのであり、それは屁理屈と呼ばれるものです。そしてまだ民たちは、ユダヤ教の指導者たちが、イエス様を妬みから殺そうとしている本当の意志を知らないでいたのです。イエス様は、先にベテスダの池で安息日に病気の人に対して癒しの業をなさいました。すると人々は、安息日に、仕事をしたとイエス様を責めました。けれど割礼は子どもが生まれてから8日目に施します。それがたとえ安息日でも、8 日目であるなら子どもに割礼を施しても、モーセの律法を破ることにはなりません。人間性の回復を象徴する割礼が安息日にも許されるなら、全身を癒すことをしても、モーセの律法を破ることにはならないでしょう。イエス様は、安息日においても癒しを必要な人々に、憐れみを示されただけです。まさにユダヤ当局の人々は、律法もイエス様のことも、うわべだけで受け留め裁いて、正しい裁きをしていませんでした。

自分の頭脳と能力を信じ、自分で切り開いていく人生は、一見何の問題もなく見えるかもしれません。しかし、その結果、良いものではありません。私たちのブレインは、神様です。神様が私たちの頭となってくださいます。神様に愛されている皆さん、自分のうわべだけの判断ではなく、神様の言葉に聴き従いイエス様の知恵とご聖霊によって判断して、人生の日々を神様と人をする為に用いて行きませんか。

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