牧師 松矢龍造
信仰には疑いがつきものです。しかしそこに止まってしまってはなりません。答えを探し続けるなら、あなたの疑いは御言葉と、ご聖霊の光と共に信仰を深めさせるものとなってゆきます。今日の御言葉には、疑う懐疑主義者の代表のようなトマスのことが出てきます。トマスを形容している言葉は、「ディディモ」原文では「双子」という意味です。物理的な双子ということ以上に、トマスには二つの側面があり、一つは信仰者トマスという面と、もう一つは疑う懐疑論者トマスという面です。
トマスは、伝説によれば、この疑っていた時から、真に大磐石のような信仰を獲得し、幾多の苦難や迫害をしのいで行きました。そしてインドにまで、宣教に出かけ、そこで殉教者として最後を遂げたと言われています。加えてクリストモスという神学者によれば、トマスは先に幼子であったイエス様を拝みに来た東方の博士たちと巡り合い、彼らを一人残らずキリストの福音の光に導いたと言われています。
イエス様は、一週間前に弟子たちに現れた時と同じように「あなたがたに平安があるように」と言われました。そして疑うトマスの鈍さを叱責されることもなく、主イエス様は、何度も繰り返して「あなたがたに平安があるように」と言ってくださいます。それは主イエス様の愛と憐れみの表われです。途方にくれていた人の要求に応えてくださったイエス様は、同じように途方にくれている私たちにも、信仰と霊によって現れてくださいます。トマスは、イエス様が十字架で受けた傷を見て、イエス様が復活されたと確信します。それは、彼が目に見えるイエス様の傷を見て、目に見えない神性を認めたということです。イエス様は、疑ったり鈍かったりするトマスに現れてくださったように、あなたにも、ご聖霊という御姿で、現れ共におられます。ですからあなたは、傍らにおられるイエス様に祈りを通して話すことが出来ます。そして聖書の中から、イエス様の、あなたへの言葉を見つけることが出来ます。イエス様は、トマスに対してと同じように、あなたに対しても、現実的なお方です。見ないで信じる人は幸いであるとは、キリストの福音を聴いて信じる者は幸いであると言い換えることが出ます。もちろん見えないのに信じるとは妄信ではありません。十字架と復活の言葉を聴いて、信じるということです。
ディディモのトマスは、信仰に変えて頂いた疑いの先駆者です。あなたが信じるようになる為に、またあなたが信じ続け、 確信を深める為に、今日の御言葉を、ご聖霊に よって受け留めて行きませんか。
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