牧師 松矢龍造
イエス様が「私は世の光である」というのは、偉大な宣言です。この世には、罪と死と悪魔と虚無という暗闇があります。私たちの内にも闇があります。さらにこの世には、無知と生きる目的の喪失と言う闇があります。世の光なるイエス様を離れていては、人生の道筋を照らす真の光はありません。またイエス様を離れて、人生に真の意味を知ることは出来ません。そしてイエス様を離れては、永遠に関することを知ることは出来ません。
仮庵の祭りは、イスラエルの民が荒れ野において、神様の助けがいかに大きかったかを覚える祭りです。荒れ野における火の柱は、神様のご臨在と、保護と、導きを表していま
した。 同じように、世の光なるイエス様は、神様のご臨在と、保護と、導きを示しておられます。
イエス様が世の光であると言われたことの意味は深いです。第一に、まず原文で「光」と訳された言葉は、霊的な意味で、人に生命を与えるものであり、隠喩的には、暗黒の中で、人を照らすもののことです。そしてこの光とは、神様及びメシアについて言う言葉でもあります。第二にイエス様は、「わたしはある」。それは永遠に存在されて、万物を創造されたお方であるということです。第三に、光は命と結びついています。第四に、イエス様は、イスラエルの民だけでなく異邦人の光でもあると言うことです。第五に、主イエス様が世の光と言われるのは、御自身の考えと教えが真実であるということです。第六に、世の光なる主イエス様の最初の来臨は、裁かず救うためでした。イエス様ご自身が、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で負われるから、さばかないと言われています。第七に、イエス様は私たちに父なる神様を示される世の光です。第八に、イエス様が世の光であるのは、暗黒と邪悪を追放し、神の人への最終的な啓示の証しをする為でした。ファリサイ派の人々は、救い主を拒絶してしまった為に、素直に神様を知り、神様を愛していると主張することが不可能になってしまいました。イエス様は、世の光として、この世に来られ、人々に罪を悟らしめ、真理を示し、真の命を与えるお方です。けれど心の頑なな人々が認めることの出来なかった光です。しかしイエス様を信じて従うなら、悔い改めて、イエス様のもと来ます。またイエス様を主なる神様として信頼します。さらに自らの全生涯をイエス様にお委ねします。そして死の向こう側に、はっきりとした明るい希望を持つことが出来ます。ならば、暗きのうちを歩まず、罪の生活を営みません。
仮庵の祭りの初日の夕刻に、神殿の婦人の庭にある四つの金の燭台に火が灯されました。そして仮庵の祭りが進められて行きます。同じように、私たちの人生も、世の光であるイエス様を、信じて受け入れてこそ、闇の歩でなく、命の光の道を行くことが始まります。世の光なるイエス様の光を受けて、私たちもまた、ご聖霊の力を頂いて、 世の光と して歩みませんか。
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