牧師 松矢龍造
今日の御言葉には三度「自分の罪のうちに死ぬ」と言われています。イエス様は、上から来られた方ですが、へりくだって、私たちの罪をその身に負われました。このイエス様の御前で自分を低くしない自分の方が上だと思っていたファリサイ派の人々は、まさに死にかけている人々でした。私たちはどうでしょうか。
イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に復活され、天に昇られます。すると人々が、地上でイエス様を捜しても、イエス様は天の御国におられるので、見ることはできません。そして自分の罪の中で死ぬ者は、天の御国に来ることはできず、地獄に行きますから、イエス様を見ることはできません。
「わたしはある」それは真の実在者、永遠の実在者であるということです。また父なる神様と等しいお方と言うことです。そして万物の創造者であり、全知全能の永遠者ということです。この「わたしはある」と言われる神の御子にして創造者を信じないなら、私たちは誰でも、自分の罪のうちに死ぬことになります。永遠に罪を持ったままなら、神なく、キリストなく、望みなく、死ぬということです。それは何と恐るべきことでしょうか。イエス様抜きにしては、罪の赦しを得る方法は、他にまったくありません。
主イエス様は、父なる神様をあがめ、この父を喜ばせ、この神様の御心を行い、この神様の愛に生きることを 生涯熱望 しました。それ は 私たち人間の本分で もありま す。しかし父なる神様に喜ばれることを行いたいと、完全に生涯、心が占有されている人は、イエス様以外にはいないのではないでしょうか。ですから、誰もが、父なる神様と御子イエス様の御前で、心を低くする必要があります。
人は、そのままでは、時間と感覚でとらえられる現実以上のことが分かりません。御言葉と、ご聖霊なる神様の助けがあって、はじめて悟る者とされます。そして私たち人間は、イエス様を信じて真の命を持つか、罪の中で死んで行くか。この二つのうち、どちらか一つを選ぶように迫られます。イスラエル人だけでなく、全ての人類は、そのままでは、自分の罪のうちに死ぬ者、すなわち霊的には、罪と死とサタンに隷属しています。ユダヤ人たちは、信心深いふりをしていましたが、実態は、不正直、不敬虔で、殺人すら行おうとしていました。この状態から、救い出されるのは、心を低くして、救い主なるイエス様を信じて、永遠の命を受けることだけです。
そうするならば、人は罪の奴隷という状態、律法主義の状態、迷信の状態、悪魔崇拝の状態、死と滅びの状態から解放されます。イエス様こそ、神の御子と信じることが、罪からの
解放と、永遠の命と、真の人生をもたらします。あなたは、表面的な信仰ではなく、生活を通して、表れる深みの信仰に向かって行きませんか。
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