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0731_先週の講壇_ヨハネによる福音書 8 章 48~59 節 「 主イエス様は永遠なる神様 」

牧師 松矢龍造


ユダヤ人たちは、イエス様を重んじませんでした。重んじないと訳された原文の言葉は「正当な価値を認めない」「はずかしめる」「面目をうしなわせる」「あなどる」「侮辱する」「軽蔑する」という意味でもあります。

逆に イエス様の言葉を信じて守るなら、その人は決して死なないと言われたのは、肉体の死のことではなく、霊的な死のことです。しかしイエス様は肉体的な死にさえ、やがて復活によって打ち勝つことになります。そして、主イエス様は、ご自身を信じる者は永遠の死を免れ、地獄の苦悶にあることが決してないということも言われているでしょう。アブラハムは、偉大な先祖であり、信仰の父です。しかしアブラハムは、誰をも霊的な死から救ったことはないどころか、自分自身でさえ、霊的な死から、自分では救い出すことが出来ませんでした。このことは預言者も同様です。アブラハムは、父なる神様の約束が、どのように成就されるかを見ようとしていました。 主イエス様は、御自身こそが、アブラハムが、待望していたメシア・救い主であると言われます。アブラハムの信仰は、メシア・キリストの到来を土台としていました。アブラハムが、モリアの山で全焼のいけいえとして、自分のイサクを捧げよと言われたとき、神様が死者をよみがえらせるのではないかと思いました。 このことからメシア・救い主の死と復活を、信仰によって理解したのではないかと言われています。そしてメシア・救い主によって、永遠の天の都に、永遠の命を頂いて、入れていただける日を楽しみにして、信仰によって見て喜びました。

主イエス様は、天地万物が造られる前から、すなわち永遠の昔から、父なる神様と共におられました。主イエス様は、アブラハムが生まれる前からおられる永遠の神様です。これを聞くとユダヤ人は、イエス様がご自身を神だと言われたので、冒涜罪として石を投げようとします。神様の時がまだ来ていないので、イエス様は身を隠して神殿の境内から出て行かれました。しかしユダヤ人たちは、皮肉にも神の御子イエス様に石を投げようとして、これによって彼らこそ御子を遣わされた父なる神様を冒涜する者となってしまいました。

私たちは、真の人生の目的は何かを問うものです。別の表現では、最上の善は何かと問うものです。そしてその全ての答えは、4500 年前のアブラハムが生まれる前から、「わたしはある」という創造者なるイエス様によってのみ、その答えを得ることが出来ます。そしてアブラハムに与えられた、全世界の祝福の基となる使命は、メシア・救い主なるイエス様によって実現してゆきます。アブラハムの子孫であるイエス様は、御自身の十字架の死と復活、そして救いを提供することによって、すべての人々を祝福されます。私たちも主イエス様の救いと祝福を頂いて祝福の基、復活の証人、そしてキリストの平和の使者として御聖霊の力を頂いて歩んでいきませんか。

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