牧師 松矢龍造
再臨のキリストは、すぐに来ると言われています。もうキリストが最初に来られてから二千
年も経過しています。ヨハネの黙示録が記されてから言えば、1900 年も過ぎているではないかと言う人たちがいます。しかし次の御言葉を忘れています。旧約聖書では、詩編90 編4 節です。「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」新約聖書での御言葉では、ペトロの手紙二3 章8 節9 節です。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」遅いと思われるとしたら、それは創造主なる神様は、創造された人間が一人も滅びないで皆が悔い改めることを願っておられるからだと言われています。そして時間と空間を超越されている主なる神様の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のように、変わりはないのです。
あまりよい例えではありませんが、ある扉をあければ、何千も前であり、またある扉を開ければ現在であり、そしてある扉を開ければ未来です。
この主がいつ来られてもよいように、この預言の言葉を守る者は、幸いなのです。この預言
の言葉とは、慰めと警告が記されています。そして守るとは、原文では、「見張る」「保持する」「命令や戒めを遵守して実行する」という意味でもあります。しかし肉の力では、守ることが出来ないので、「信じる」と意訳している聖書訳もあります。心を尽くして主なる神様を愛し、隣人を自分と同じように愛する。これは肉の力では、完全に守ることは不可能です。むしろ律法によって罪の自覚が深まるだけです。ですから、自分の罪を主の御前に告白して、神の御子の十字架と復活は、私の為であったと信じるなら、罪が赦されます。そして御聖霊に拠り頼み、その力によって、この預言の言葉を実行する者は幸いなのです。ヨハネの黙示録が記されていた時代には、天使礼拝なる異端が存在していたという背景があります。加えて、ヨハネの黙示録の強調点の一つは、創造なる神様にして救い主なる神様に、天上でも、地上においても、礼拝を捧げるということです。礼拝は、常にキリスト者の信仰生活の中心です。もう終わりが、すぐにでも来るので、秘密にしておいてはならないのです。全世界の人々に宣べ伝える必要があります。
一度来られ再び来られるキリストに対して私たちの人生を全面的に懸けます。ならば主の預
言の言葉を信頼し心に止め信じ守ります。このお方のみに礼拝を捧げ、ご聖霊様に助けを求め、この預言の言葉である神様と人を愛して主の御栄光を表し御心に聴き従う歩となりますように。
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