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1106_先週の講壇_ヨハネによる福音書12章36a~50節「世を裁くためではなく世を救うため」

牧師 松矢龍造


今年も、一か月後にはアドベント、キリストを待ち望む待降節に入ります。約2000年前に神の御子キリストが、最初に、この世に来られたのは、世を裁くためではなく世を救う為でした。そして世の終わりにもう一度来られる時には、世を裁き、救いを完成する為に来られます。イエス様は、神の御子・キリストであることを示す為に、しるしと奇跡を多くなさいました。ヨハネによる福音書では、既に七つの奇跡を受け留めてきました。ガリラヤのカナにおいて水をぶどう酒に変えられた奇跡。役人の息子を癒す奇跡。ベテスダの池のほとりで足なえを癒された奇跡。男性だけでも5千人をパンと魚で養われた奇跡。ガリラヤ湖で嵐を静められた奇跡。生まれながらの盲人を癒された奇跡。ラザロを死者の中からよみがえらせた奇跡をなさいました。これらのメシア・救い主としての、しるしと奇跡を行われても、イエス様を信じない人々がいました。そのことは既に旧約聖書に預言されていました。ユダヤ人たちは、ローマ帝国を打ち破る政治的、軍事的統治者をなす王なら望みましたが、自分の罪を神様の前に認めて悔い改めることは望んでいませんでした。私たちもイエス様を求めるのは、世での成功の為でしょうか。それとも悔い改めて、罪の赦しを願う為でしょうか。キリストの恵みによる救いを伝える、福音の言葉は、今は救いの言葉ですが、世の終末においては、信じない者への裁きとなります。

終わりの日の裁きとは、神様が全ての人を裁かれる最後の審判のことです。あくまでもキリストの福音を拒み続けるなら、最後の審判において地獄行きとされます。イエス様のしるしと奇跡そしてその教えに対して、どのように反応したか三者に分かれています。一つは、心が鈍いという不信仰者たちです。その代表はファリサイ派の指導者たちです。二つ目に、臆病者の信仰者たちです。その代表はユダヤ人の指導者の中で密かにイエス様を信じると言いながら、ファリサイ派の人々を恐れて、公に言い表さなかった人たちです。

そして三つ目は、ユダヤ人の指導者たちの中で、ファリサイ派の弾圧の中でも、耐えて、公に信仰を言い表したニコデモや、アリマタヤのヨセフです。この二人のように、最後まで忠実な証人であり続け、一時的に承認されることよりも神様に永遠に受け入れられることを心にかけましょう。そして心が鈍く不信仰な人々に対しても、臆病者の信仰者に対しても手を差し伸べる責任があります。

神様に愛されている皆さん、人からの誉れよりも、神様から誉れの方が重要です。一時的なことより永遠に神様に受け入れられることの方が大切です。神の言葉なるキリストを信じて、御聖霊の力によって、忠実な証人であり続けませんか。そして隣人への愛と福音が、いつか神様の時に、実を結ぶ日を、待ち望んでいきませんか。

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