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1107先週_ヨハネによる福音書1 章2~5 節「万物の創造者キリストは真の命と光」

牧師 松矢龍造


今日の御言葉ではキリストのことを、言、命、光と表現しています。そして私達人間が抱え

ています暗闇、すなわち無知、死、罪、不信に対して、真の光を灯す存在として書き始められています。1 章1 節、そして2節にもキリストは「言」と言われています。それは第一にキリストは、言葉によって万物を創造された創造者故に「言」と言われています。第二にキリストは、目に見えない神様を啓示し語るゆえに「言」と言われています。

このキリストによって万物は造られ、支えられているのですから、この創造者であるキリス

トから離れては、無に帰してしまいます。またこのキリストの心の中核に迎えてこそ、私たちは真に人間として生きて行けるということです。私たちは、イエス・キリストというと約2000年前に、乙女マリアより御聖霊によって誕生したというイメージが強いと思います。しかしもう一つの要素である、天地万物の創造者キリストという認識も決して忘れてはならないキリスト観です。父なる神様は、キリストを通して、創造と摂理と贖いと救いの業をなされるお方です。ですから私たちの肉体と精神、また社会性と霊性、そして救いに関して、キリスト抜きに考えることは無を意味し、あらゆる関係においてキリストを入れて初めて真に成立することを忘れてはなりません。

「命」と訳された言葉は物理的な命であり、また霊的天的命をも意味している言葉です。復活であるキリストを通して、生命の源泉である神様から受けて維持される命のことを示しています。御子の内に真の命があるので、この御子を信じる者に永遠の命を与えることが出来ます。

キリストは、過去も現在もそして未来においても、命の源です。加えて「命」というのは何も動かず語りもしない偶像に対しても「内に命がある」と表現されています。命になるキリストは、偶像と異なり、また幻影でもありません。加えて、この命は、人間を照らす光であったと言われています。この光も単なる物理的な光だけを意味していません。それは精神的にも社会的にも霊的な意味でも光です。キリストが、光と言われているのは、この世にある無知と不信仰と罪と死と虚無という暗闇を、唯一解決することが出来る光として対比され、暗闇に輝いています。しかしキリストが、私達人間の抱える暗黒を唯一解決する為に神でありながら人となられたのに暗闇は光を理解せず、光を受け入れない人々がいます。自分の中にある無知と罪と不従順とが明らかにされたくないからです。

しかしこの言、命、光なるキリストを信じて受け入れる者は、永遠の勝利者なるキリストに

あって、暗闇に打ち勝つ命の光を得ます。言、命、光なるキリストから愛と光を受けて、ほかの人々に分かつ歩みとなってゆくところの世の光に、御聖霊によってなってゆきませんか。

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