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1113_先週の講壇_ ヨハネによる福音書13章1~17節「弟子の足を洗われたイエス様」

牧師 松矢龍造


十字架につけられる金曜日の前日の木曜日と思われます。イエス様は、弟子たちを、この上なく愛し抜かれました。イエス様は、いよいよ長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、人類の罪の身代わりとなって十字架につけられ殺されること。そして墓に葬られ、陰府に降られ、三日目に復活して父なる神様がおられる天に帰られる時が来たことを悟られました。古代ユダヤ人社会では、主人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。イエス様は、奴隷の仕事を引き受けて弟子たちの足を、たらいで洗い、腰にまとった手ぬぐいで、ふき始められました。イエス様が、弟子たちの足を洗われたことは、この世の罪の為に、十字架で死なれるという、これから行われる偉大な犠牲的行為の象徴でした。

キリストの十字架の死と結びつけられることがなければ、キリスト・イエス様と何の関係もなくなります。ならば、罪と死と悪魔と虚無の中で、滅びるだけです。体を洗った者とは、主イエス様を信じて、洗礼を受けた者のことです。洗礼を受けた者は、再び洗礼を受ける必要はなく、日々の生活の中で犯す罪を、悔い改める必要があるとイエス様が言われたと思います。イスカリオテのユダがイエス様を信じることなく、洗礼を受けていないので、きよいわけではないと言われました。イエス様は、イスカリオテのユダが裏切ることを知っておられながら、なおこのユダが悔い改める機会を与える為に極みまで愛し抜かれたのです。イエス様が、弟子たちの足を洗われたのは、十字架の死の象徴でしたが、加えて、最後まで愛されるしるしであり、また神様の御心に従うことのあらわれでした。そしてもう一つ、仕える模範を示されたのです。互いに足を洗い合う信仰と精神は、私達皆が、身に着ける必要があることです。主イエス様が、足を洗われた一人は、ご自身を裏切るユダです。また三度御自身を否むペトロです。そして誰が一番偉いかと議論している弟子たちの足です。さらに仕える者は、うやまわられるほどに、幸いで祝福されるとイエス様は言われました。僕となって、ついに十字架で死なれた神の御子に従うことは、父なる神様に迎えられる、幸いへと結びついてゆきます。

イエス様は、仕える王者でした。その模範にならうと共に、ご聖霊から、謙遜の霊の賜物を頂くことが必要です。この二つが、なければ、肉の力では、謙遜になって仕えることは、不可能です。互いに仕えることや、愛の実践は、実行してこそ、初めて本当の価値があり、幸いとなります。自らを低くして、互いに仕え合い、兄弟愛を実践してこそ、イエス様の模範に、ご聖霊によって倣うことです。私たちが、兄弟姉妹を、きよい、高貴な生活に引き上げることができるのは私達が最も低く謙遜になるときだけです。私たちも、その道に、ご聖霊によって、進んでゆきませんか。

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