牧師 松矢龍造
バプテスマのヨハネは、歩いておられたイエス様を見つめて「見よ、神の小羊だ」と言いま
した。ヨハネの二人の弟子は、それを聞くとヨハネの元を離れてイエス様に従いました。バプテスマのヨハネは、二人の弟子たちが自分から去ってイエス様のところに行くことを見て、自分の務めが終わったことを悟りました。彼は何の妬みも、悲しみも感じなかったのではないでしょうか。彼は花婿なるキリストの友人であり、花婿の声を聞いて大いに喜んだのです。彼は弟子や友から高く評価されることよりも、弟子や友が主イエス様に従って行くことに、心を用いたのです。私たちは、どうでしょうか。
ヨハネの弟子であった二人は、主イエス様との交わりを切望していました。イエス様は二人
に対して「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。37 節と38 節で「従う」そして39節にも「ついて行く」と同じ原文の言葉が三回使われています。それは同行する、イエス様に留まるという意味が強調されているということです。中国人の言葉に「君とともに一夜話すことは、10 年書物を読むにまさる」とあります。私たちも、霊のキリストと、こうした交わりに入りたいものです。
必ずしも、偉大な説教家や巧みな弁士である必要はありません。単純な言葉で、主イエス様
のことを、隣人に告げさえすればよいのです。そうすれば、あとのことは、神様が引き受けてくださいます。ケファはアラム語、ペトロはギリシア語で共に「岩」という意味です。新しい名を受けるのは、神様との新しい関係に入ることを意味していました。シモンの現在の姿は「岩」と呼ばれるような性質ではありませんでした。イエス様は、将来の可能性を見て、彼らの力を引き出されます。ペトロは、この後にイエス様に対する愛情、忠誠、情熱的な姿を見せます。しかしイエス様を三度否むという失敗と絶望という有益な経験により、訓練された後に復活の主イエス様と出合い、ペンテコステ・ご聖霊の降臨の後に岩の人となり、また「神の小羊」であることの真の意味を知ってゆきます。
主は私たちに対しても、ペトロにように将来の姿を見て召し出してくださっています。日々、造り変えられながら、失敗を通して成長させてくださいます。そして、うみ疲れることなく、キリストとその十字架と復活を、世に宣教せねばなりません。誰でもキリストによる救いが必要だからです。さらに主に聞き従うことが、誰においても大切なことです。先ず主イエス様のところに来て、霊的にイエス様を見て、祈りと御言葉を聴いて祈り過ごしませんか。その恵みに預かったなら、御言葉に聴き従い、私たちも隣人に対して、イエス様のところに来て見て下さいと、証しする日々となってゆきませんか。
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