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1225先週の講壇_ヨハネによる福音書 15 章 11 17 節「 主イエス様に愛され選ばれた人の生活」

牧師 松矢龍造


イエス様の喜びとは 、 神様を可能な限り自分の人生に迎え入れる時に、心の中に湧いてくる喜びのことです。それはキリストに留まり、その戒めを守った時に満たされる喜びです。その戒めは、愛をもって仕えることから得られる喜びです。ですからイエス様の言われる喜びとは、人間の肉の喜びのことではなく、神様の愛の内に安んじて、神様との交わりの内にもつ喜びのことです。そして神様に拠り頼むときに生まれる喜びのことでもあります。それは死の前であっても、動かぬ喜びのことです。イエス様は、苦難の十字架の後に、栄光の復活があることを、喜びとされてい のではないでしょうか。その喜びは、状況に打ち勝ち、神様のものとされた喜びのことでもあります。加えて、イエス様の喜びは、さらに言えば、弟子たちの存在そのものが喜びであり、また弟子たちが滅びから救われることであり、そして弟子たちが、愛の人に変えられてゆくことです。

私たちの相互の愛の基礎は、主イエス様の十字架の死によって示された愛です。友に対する最大の愛は、友の為に、自分の命を捨てることだとイエス様は言われました。そしてその言葉通り十字架で、私たちの為に、自分の命を捧げられました。私たちは、肉の力では、友の為に命を捨てることはできません。御聖霊から特別な愛と力の賜物を頂いてこそ、実現してゆくものです。僕とは、他人に所有され管理される奴隷のことです。主人は、奴隷や僕の場合、対等と思わず、友人同士のようには話しかけません。しかしイエス様は、私たちを友と呼ぶので、父なる神様から聞いたことを、イエス様を信じる人たちに知らせます。神様の愛による選びや任命は、弟子たちの業を、絶えず鼓舞し豊かな実を結ばせる源泉となってゆきます。イエス様を三度否むペトロイエス様を見捨て逃げる弟子たち、 そんな弟子たち、いや私たちを、なお愛をもって選び、それぞれの働きに任命してくださっています。祈りは、キリストの名による祈りであり、信仰による祈りです。ですから利己的な祈りであってはならず、神様の御旨をなしてくださいという祈りです。その時に出かけて行って実を結び、その実が残って行きます。キリスト者は、世から多くの憎しみを受ける場合があります。その中で私たちは互いに愛し合い、支え合う必要があります。父と子と弟子の愛による一致の中に身を置くことは、どんなものにも代えることが出来ない、最上の喜びです。そしてイエス様は愛する強さを、私たちに与えてくださいます。主イエス様は最初に私たちを愛し、私たちの為に死ぬこと、そして永遠にご自身と共に生きるように、私たちを招くために選んでくださいました。ならば私たちは、自発的に神様の選びに対して応答することがふさわしいです。選びは任命へと繋がってゆきます。愛の実、宣教の実を祈り、御聖霊によって良き実を結ばせていただきませんか。


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