牧師 松矢龍造
起
旧約時代、レビ族のみが、聖所で祭司を助けました。しかしそのレビ族でさえ、聖所や祭具と祭壇に近づいてはなりませんでした。聖所で働くことが出来るのは、祭司のみでした。
このようにレビ族と祭司が、特別に選ばれたのは、人間にとって、最も大切なことは、神様の栄光であり、礼拝であり、神様との関係であるからです。
承
キム・ジンホという方が、「神様のデザイン、礼拝」という題で次のように言われています。「礼拝を意味する英単語『ワーシップ(worship)』は元々、『価値を、ある対象に返す』という意味です。
文字通り、礼拝とは、イエス・キリストによって、新しく生まれた人が、父なる神様の御性質を覚え、神様に感謝と栄光、誉れと讃美を、御聖霊の導きによって、ささげることです。このように最上の価値を、ささげる礼拝が、人間中心になってはいけません。
A.W トウザーが『だれでも自分の目的を成就するために神様を利用しようとするなら、神様を見い出せないだろう』と語ったように、神様中心でない礼拝は、自己満足を追求する宗教的行事や社交的な集まりに転落してしまう危険があります。
その意味で、礼拝は、人間が人間らしく生きられるように、神様が与えてくださった贈り物であると言えます。神様は、罪に縛られた人間を自由にするための、新しい道をデザインされたのです。
ですから、私たちの人生は、神様のデザインを完成するものになる必要があります。
御言葉と御業の中で、ご自分を啓示される神様に、霊と真をもって応えなければなりません。礼拝を通して、失われた神様との関係を回復するなら、神様が本来デザインされた最も美しくて自然な人生を生きることができます。礼拝を通して、神様と交わるとき、天が開き、地に縛られていた、すべてのものが解かれる御業が起こります。私たちの全人生が、神様に立ち返る礼拝になるなら、神様は真に栄光を受けられるでしょう。」
転
前回、イスラエルの12 部族から、それぞれ一本ずつ杖が出されましたが、アロンの杖のみに、芽が吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結びました。しかし他の12 部族の杖も、焼かれたり破壊されたりしませんでした。他の部族は、レビ族やアロンの家系とは、異なった使命が委ねられていることの表われではないでしょうか。
新約時代の表現で言えば、私達は皆、キリストの体の肢体の一部分なのです。エフェソの信徒への手紙4 章25 節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
今日の御言葉には、祭司とレビ人の義務と権利が記されています。聖所の中に入って、祭具や祭壇に近づき、贖い業をなすのは、祭司のみの働きです。レビ族をはじめ、他の部族の人達が聖所に近づいてはなりませんでした。彼らも、祭司たちも、死ぬことがないためです。もし祭司以外の者たちが、聖所に入るなら、聖所は汚され、その責任は、入った人たち共に、それを防がなかった、祭司にも責任が及びます。それほどに、祭司の責任は大きいものであることの裏返しです。幕屋が移動する為に解体されますが、それは祭司が祭壇や祭具に触れて解体して、それを聖所の外に、覆いを掛けて、移動します。そしてその覆われた祭壇と祭具を、レビ人が運びます。ですから、直接祭司以外は、聖所に近づいたり、祭壇や祭具に触れたりしてはならないのです。
レビ人が選ばれた理由は、祭司のもとで、聖所の運搬だけを扱うのではありません。イスラエルの民のうち、最初に生まれた初子と、最初に生まれた家畜の初子は、聖別され、捧げられました。
その際に人間の初子の代わりに、レビ人が選ばれて、神様に捧げられました。そして嗣業地は、レビ族には与えられませんでした。
レビ族以外の人々は、10 分の1 を、神様に捧げ、嗣業地をもたないレビ人の生活の為に用いられました。そして各部族の中に、レビ人たちが、住む町が与えられました。そこでレビ人は、各部族の人々に、存在と働きを通して、神様を礼拝し、神様の栄光の為に生き、神様との関係が最も大切であることを示しました。
与えられた10 分の1 から、またレビ族は、その受けたもののさらに10 分の1 を神様に捧げま
した。そしてそれは祭司の生活の為に捧げました。捧げ物には、穀物の献げ物と、贖罪の献げ物と、賠償の献げ物が代表的な物です。そのうち贖罪の献げ物と、賠償の献げ物は、脂肪の一部を祭壇で焼き、残りの肉は、祭司が煮て食べました。
献げ物に関しての規定は特に、レビ記6 章18 節~7 章10節に詳細に記されています。「アロンとその子らに告げてこう言いなさい。贖罪の献げ物についての指示は次のとおりである。贖罪の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で主の御前に屠る。これは神聖なものである。この贖罪の献げ物は、それをささげる祭司が聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べる。この献げ物の肉に触れる者はすべて聖なるものとなる。また、この献げ物の血が、これを振りまく祭司の衣服にかかったならば、その衣服は聖域において洗い清めねばならない。
また、献げ物を煮るために用いた土鍋は打ち砕く。しかし青銅の鍋で煮る場合は、鍋を磨き、水でゆすぐ。祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。それは神聖なものである。
しかし臨在の幕屋で行う、罪を贖う儀式のために血をささげられた動物の肉は食べることはできない。焼き捨てねばならない。
賠償の献げ物についての指示は次のとおりである。これは神聖なものである。賠償の献げ物は焼き尽くす献げ物を屠る場所で屠る。血は祭壇の四つの側面に注ぎかける。脂肪は全部切り取ってささげる。それは脂尾、内臓を覆っている脂肪、
二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉である。祭司はこれを祭壇で燃やして主にささげ、煙にする。これが賠償の献げ物である。
祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。これは聖域で食べねばならない。
これは神聖なものである。贖罪の献げ物も賠償の献げ物も指示は同じであって、献げ物は罪を贖う儀式を執行する祭司のものである。祭司がある人の焼き尽くす献げ物をささげる場合、その皮は祭司のものである。また、かまどで焼いたり、平鍋や鉄板で作られた穀物の献げ物はすべて、これをささげる祭司のものである。穀物の献げ物は、オリーブ油を混ぜたものも乾いたものもすべて、アロンの子ら全員のものであり、公平に分け合わねばならない。」
また新約時代には、コリントの信徒への手紙一9 章13 節、14 節「あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」
牧師も、捧げられたものによって生活と働きが支えられますが、同じく10 分の1 を捧げることは、他の信徒の方々と同じです。いずれにせよ、神の民も、レビ人も、10 分の1 を神様に捧げることは、全てを主から委ねられた感謝と共に、皆が捧げます。それは最上のものであることが、ふさわしいです。
そしてこの献げ物の規定は、永遠の塩の契約と言われています。塩は腐敗を防ぎ長く続かせるものの象徴です。この契約は、不変の定めと言われました。礼拝や神様の栄光、そして神様との関係において、献げ物は切り離せません。なぜなら、キリストの身代わりの犠牲と、私たちの感謝と応答は、神様と私たちとの関係から切り離す事が出来ないからです。
それにしても、レビ人も、祭司も、考えてみれば、主が選ばれた以外に、他の部族や人と、何が異なるのでしょうか。本来、誰がなっても、主のご用には、ふさわしくない者です。その意味では、求められていることに、ふさわしい方は、イエス・キリストのみです。真の祭司であり、レビ人であるのは、キリストです。このお方だけが、本章の要求を満たすことが出来る唯一のお方です。
地上の聖所は、天上の聖所の影に過ぎません。本体である天上の聖所の大祭司は、イエス・キリストです。そして新約自時代は、キリスト者が、地上における霊的なレビ人であり、万人祭司とされています。大祭司なるキリスト、祭司やレビ人の性質を受けて、神様の栄光を表します。神様の栄光を表す模範となり、隣人を執り成す祭司となり、御言葉を証しする霊的なレビ人として、置かれた場所、派遣された場所で生かされ、生きます。
その際に、訓練も必要ですが、最も大切なことは、御聖霊の油注ぎに預かることです。ロビー・ギャラティという方が「養育プログラムよりも重要なこと」と題して、次のように言われていました。「以前、アメリカのある大型教会の牧師が、自分の奉仕している教会が、主のまことの弟子を生み出せていないことを、公に認め、謝罪しました。人を集め、感化させ、リードすることに秀でていた彼は、自分の働きの失敗を認めつつ、このように挫折感を露わにしました。
『私たちは間違いを犯しました。私たちは、教会員たちが、他の人を導く前に、まず御聖霊の油注ぎを受けるべきだと教えなければなりませんでした。』その教会は、数十年で最高の施設と、最新の養育プログラム、そして教会広報に数千万ドルを使いましたが、信徒たちを成長させることにおいて、失敗しました。
教会員を増やすことだけに資源を集中させ、個人の信仰の成長のために体系的な計画を立てることは、疎かにしてしまったのです。もちろん、多くの福音主義の教会は、聖書の学びや信仰の訓練を強調しているのは事実ですが、信徒一人ひとりが、深く悔い改め、神様と親密に交わり、霊的に成熟していないなら、教会の未来は、明るくはないでしょう。
私たちはみな、罪の中にいましたが、キリストを通してこそ、そこから抜け出し、主の御前に出た者たちです。人生のバックグランドに関係なく、『全ての人』が弟子として訓練を受けなければなりません。主の言葉に対する信仰と知識によって武装し、御聖霊に満たされたクリスチャンこそ、神の国を広げていく働き人なのです。」
結
神様に愛されている皆さん。主から委ねられている務めを、忠実に果たしてゆく歩となる為に、御言葉と訓練と、御聖霊の油注ぎに預かってゆきませんか。その際に、礼拝と神様の栄光と神様との関係を第一にしなが、信仰生活を歩んでいきませんか。お祈り致します。
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