牧師 松矢龍造
起
キリスト者の生活の中心は神様です。同じようにイスラエルの宿営の中心は、神の臨在を現わす幕屋でした。幕屋は、主なる神様が、モーセを通して示された構造と聖具どおりに作られました。
モーセは、幕屋を建て終わった日に、幕屋とすべての祭具、祭壇とすべての祭具に、油を注いで聖別しました。シナイ山の麓から、荒れ野に向けて旅立つ際に、最も大切なことは、主のご臨在でした。私たちキリスト者の信仰生活においても、最も重要なことは、神様のご臨在と、神様を中心として生活することです。
承
イスラエルの12 部族の、それぞれの指導者すなわち、それぞれの家系の長は、二人につき一台の牛車と、指導者一人につき雄牛一頭を主の前に引いてきました。牛車は、おそらく二輪車であり、雄牛は各牛車を二頭ずつで引くためでした。雄牛は、大きな荷物を引っ張ったり、鋤を引いたりすることに用いられていました。旅においては、雄牛と牛車は、幕屋の幕と祭具の移動に用いられました。レビ人たちは、この6台の牛車と12 頭の雄牛を受け取り、幕屋の幕と祭具を運ぶ役割をしました。しかしケハトの子らは、雄牛や牛車ではなく、肩で契約の箱の運ぶために刺し通された担ぎ棒で運びました。かつてダビデは、契約の箱を、車に乗せて運ぼうとして失敗し、ウザは契約の箱を手で押さえてしまい裁かれてしまいました。主の御心に従うことが、最も大切と、ここでも示されます。
転
加えて、12 部族の指導者たちは、一日に一人ずつ捧げ物をしました。幕屋を建てるために、すでにすくなからず、献げものをしてきました。にもかかわらず重ねて、入念に祭壇奉献のための献げ物をも、神様にささげました。出エジプト記35 章21~29 節「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた。青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、および、じゅごんの皮を持っている者も皆、それを携えて来た。銀や青銅を献納物としようとする者は皆、それを主への献納物として携えて来た。また、アカシヤ材を持っている者は皆、奉仕の仕事のためにそれを携えて来た。心に知恵を持つ女は皆、自分の手で紡ぎ、紡いだ青、紫、緋色の毛糸および亜麻糸を携えて来た。心動かされ、知恵に満ちた女たちは皆、山羊の毛を紡いだ。指導者たちはエフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類、香料、灯油、聖別
の油、および香草の香を携えて来た。モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た。」しかも一度ささげたら、次のささげものを考えました。使徒パウロは、主イエス様から示された幸いを次のよう伝えています。使徒言行録20 章35 節「受けるように与える方が幸いである。」イエス様の弟子となり追従した多くの女性たちは、財産をもって仕えていました。ルカによる福音書8 章2節3 節「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」加えて12 日間、同じものが繰り返し、1部族毎にささげられました。余を越えると、こなす思いが出てきやすいです。型どおりにするなかで、思いが散漫になりがちになります。しかし、うまず、たゆまず、行われました。奇抜斬新なことから成り立つのではありませんでした。根気よく、
絶えず、緊張した精神で実行されました。
私たちの信仰生活も、うまず、たゆまず、主の御心に従うことこそ、ふさわしいです。新約聖書ガラテヤの信徒への手紙6 章9 節「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」指導者たちが、毎日1 部族毎に捧げられたものは、皆同じ内容のものでした。これらは、幕屋の働きと維持のために必要な物がささげられました。銀の鉢は、指で犠牲の動物の血を祭壇に振りまくために用いられました。また穀物のささげものは、神様への感謝を表しました。焼き尽くす献げものは、香ばしい香りで、神様を喜ばせるものでした。
贖罪のささげものは、意図しない罪のために、罪をきよめる献げ物となりました。和解のささげものは、神様との平和が成立したことを祝う物です。奉納者が唯一祭司と会食できるささげものでした。至聖所は、神様の臨在の場と、ケルビムという御使いの模様が刺繍された垂れ幕によって、幕屋の他のところと分けられていました。至聖所の外には、香をたく祭壇が置かれ、香の甘い香りが、幕屋中に漂ってした。
掟の箱、またの名を契約の箱の蓋の部分は、贖いの座あるいは「あわれみの座」と呼ばれてもいました。その蓋には、二対のケルビムの像が置かれていました。ケルビムは、翼があり、エジプトのスフィンクスのように人間の頭を持つ、獅子に似ていました。また古代メソポタミアの神殿を守護する像のように、人間の頭を持ちますが、獅子に似たようなかたちをしていたというとイメージしやすいかもしれません。
エゼキエル書41 章18 節19 節「ケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた。なつめやしは、ケルビムとケルビムの間にあった。ケルビムには二つの顔があって、人間の顔は、こちらのなつめやしに向き、獅子の顔はあちらのなつめやしに向いていた。それは神殿の周りにも刻まれていた。」この贖い座の二頭のケルビムの間から、神様はモーセに語り掛けられました。律法の条項の総数は、613 と言われ、否定的な命令が365、肯定的な命令が248 で、合計613 となります。これらの幕屋の聖別、またささげもの、そして贖いの座から語られる神の言葉を通して、私たちは、なにを学ぶべきでしょうか。第一に、信仰深く敬虔で、謙遜で従順な神のしもべに、神様は語り掛けてくださるということです。イエス様も、耳のある者は聴きなさいと言われました。マタイによる福音書13 章43 節「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
第二に、ささげものは、神の民が、心を込めて、神様に奉献する喜びのしるしでした。その姿に、神様の臨在と栄光が、写し出されました。新約聖書コリントの信徒への手紙二9 章6~9節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。
喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」
第三に、現在は、ケルビムの間からではなく、聖書の御言葉と、御聖霊の導きを通して、主は私たちに一人ひとりに語り掛けられます。使徒言行録2 章3節4節「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」使徒言行録20 章32 節「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」
テモテへの手紙二新共同訳3 章15~17 節「また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」
結
最後に、ムン・ソンという方の「私の罪を教えてください」という内容を受け留めます。「私は、パプアニューギニアのミヒ部族に十戒を教えました。聖書の御言葉の他には、何の説明も付け加えなかったのですが、部族の人たちは、互いに顔を見合わせ、恐れた表情でうつむきました。ある兄弟は、両足の間に顔をうずめるほどでした。最後の御言葉を終えると、一人、二人と家に帰って行ったのですが、ある兄弟が、私たちと一緒にいたら怖くなさそうだと言って、その場から離れようとしませんでした。そのような彼らを見て、混乱してきました。部族の兄弟たちは、十戒をくださった神様のみこころに従って、自分たちの罪に気づいて恐れましたが、宣教師である私は、なぜ十戒の前で、何の霊的な恐れも起こらなかったのかと、非常に戸惑ったのです。部族の兄弟たちにとっては、十戒は生きた御言葉でしたが、私にとっては、そうでなかったのです。私は、十戒をすべて暗記しているだけでなく、他の人に教える準備ができていると思っていました。ところが、十戒の前で、恐れる心が私にはありませんでした。罪人ある私にも同じような悔い改めと恥ずかしさが起こらなければなりませんでした。道徳的、倫理的に罪を犯さなかったからといって、主の言葉を避けて通ることができる人はいません。人間の本性は、原罪によって堕落しました。ですから、自分自身、希望のない罪人あることに気づかせ、十字架へと導いてくれる御言葉から離れてはなりません。神様の主権の中で、死への恐れ経験することは、主の恵みです。義の神様に出合い、罪を忌み嫌うようになることが、最も大きな祝福なのです。」
主にある愛する皆さん、聖なる神様の御前で、御言葉を通して、義と罪と、贖いと赦しを、御聖霊によって悟り、きよめられ、愛の応答を捧げて行く歩みとなりませんか。お祈り致します。
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