牧師 松矢龍造
起
私たちは、明日どんなことが起こるか分かりません。今日のこの瞬間の後でさえ、何が起こるかは分かりません。そんな私たちの人生の旅路において最も大切なことはなんでしょうか。それは創造主なる神様、また歴史の主、そして救いの主なる神様の力と、共にいてくださる主の臨在ではないでしょうか。ジョン・ウェスレーという聖徒が、晩年に遺した有名な言葉があります。それは「主が共にいてくださる。それが全てである。」
承
シナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民、約240 万人は、荒れ野の旅に出発する時に覚えることは、同じく神様の力と臨在であることを、今日の御言葉で示されています。それを確認するのが、主の臨在の幕屋の中の燭台のともし火であり、この幕屋の為に務めるレビ人の清めの儀式と働きの期間のことが関連しています。
転
1節2 節「主はモーセに仰せになった。アロンに告げてこう言いなさい。あなたが、ともし火皿を載せるとき、七つのともし火皿が燭台の前方を照らすようにしなさい。」
臨在の幕屋には、窓が一つもありませんでした。その内部はただ一つ、燭台の光によってしか見ることが出来ませんでした。私たちの人生の闇や未来が見えないことも、霊的な闇と言えます。この燭台の光は、象徴的な意味であると共に、祭司が臨在の幕屋で任務をする際に必要な物理的な光を提供するものでもありました。
闇の中に輝く光は、神様の聖なる臨在を印象付けます。レビ記24 章1~4 節「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に備え付けさせなさい。アロンは主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともしておく。これは代々にわたってあなたたちの守るべき不変の定めである。アロンは主の御前に絶やすことなく火をともすために、純金の燭台の上にともし火皿を備え付ける。」
この燭台は、純金で出来ており、土製の小さな、ともしび皿七枚を置く主柱と支柱を合わせて7本からなるものでした。ともしび皿の光は、神様の栄光を表していました。7つあったのは、7 は完全数であり、神様の完全さを象徴しています。そして旧約時代も、新約時代も、しばしば神様は光であるとたとえられています。ヨハネによる福音書8 章12 節「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」またヨハネの手紙一5節と7 節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」そしてこの神様の光を受けたなら、私たちもこの主イエス様の光を私たちの周りに反射させるところの世の光である言われています。マタイによる5 章14 節「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」
そして神の民が主によって集められている教会も、燭台として、たとえられています。ヨハネの黙示録1 章20 節「わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」旅立ちにおいて、イスラエル民も、人生の旅を歩む私たち一人ひとりも、先ず確かめることは、神のご臨在の光と、この世において向かう方向です。そして神の民は、この世の旅路において、世の光として輝く為に召し出されています。
シナイ山の麓を旅立つイスラエルの民は、その準備の最中に、臨在の幕屋の燭台について確認するように述べられています。主は光です。ダビデの詩編27 編1節「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」
続いて5節~26 節までは、臨在の幕屋に関する仕事に携わるレビ人に関して述べられています。レビ人は、神様と人間との仲介役をします。しかし罪ある者であるならば、神様と人との仲介役を担うことは出来ません。それでレビ人には、清めの儀式が必要とされました。レビ人は、大祭司のように雄牛をもって、罪の為にいけにえを捧げることが聖別の為に必要でした。レビ記3 章2 節「油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。」
またレビ人は、臨在の幕屋で奉仕する前に、清めの水を体に振りかけて、罪を洗い流す必要がありました。さらに祭司には、祭司の服がありましたが、レビ人には祭服がありませんでした。それで全身の毛をそり、着ている服を水洗いしなければなりませんでした。レビ族のうち、アロン系の人達は、祭司となりましたが、他のレビ人は、祭司に仕える者とされます。祭司とレビ人は、イスラエルの民の捧げものに関して、奉仕の務めを担いました。
穀物の捧げ物は、感謝の捧げものでした。また贖罪の捧げものは、意図せず過って神様の戒めを破った際に、罪を清めるものでした。そして全焼のいけにえは、その身を神様に捧げる献身を表していました。私たちが、主日礼拝において、献金を捧げる際に、これは神様に対する感謝と献身のしるしですと祈ります。
捧げるイスラエルの民は、レビ人に手を置きました。10 節「そして、レビ人を主の御前に進ませ、イスラエルの人々はレビ人の上に手を置く。」民に手を置かれたレビ人は、民の奉納物として、神様のものとなります。そして民の代表として奉仕にあたります。民数記8 章11 節「次に、アロンはイスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする。」民はレビ人に手を置いたなら、今度はレビ人が、いけにえの上に手をおきます。すると、奉納者と捧げものが一体となりました。レビ記3 章2 節「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。」
レビ人は、雄牛の頭に手を置きます。それは民の罪の贖いのために選ばれたレビ人が雄牛に手を置くことで、民の罪が雄牛に移されます。そしてその雄牛を屠ることで、身代わりの血が流され、贖いの血として用いられます。この動物犠牲は、不完全ですので、キリストの十字架の血によって、私たちの罪が贖われることを指し示すものでした。
旧約時代のレビ人も、奉仕の前に清潔の体験がなくてはならなかったように、新約時代の霊的なレビ人であるキリスト者も、奉仕の前に、聖潔の体験がなくてはなりません。主日礼拝の冒頭で、罪の告白と赦しの宣言が必要としているようにです。また日頃から、罪を犯したなら、神様の御前に罪を告白して、主イエス様の贖いの血による恵みに預かります。
23 節~25 節の中で、レビ人が臨在の幕屋で奉仕が出来るのは、25 歳~50 歳の間となっています。前は30 歳となっていましたが、おそらく25 歳から30 歳まで五年間は、訓練期間と見ることができます。また50 歳までとなっていたのは、幕屋を運ぶ際には、体力が必要であったからでしょう。しかし50 歳を越えても、若い世代の責任の軽減や、忠告を与えたり、相談に乗ったりする役割がありました。
今も牧師の務めや、万人祭司の務めを教会員が担うためには、訓練の期間が必要です。そして定年を迎えたなら、現役世代を、励ましたり、相談に乗ったりして、次の世代を育て、助けます。
結
新約時代は、主イエス様の光と贖いを受けて、私たちの体なる肢体を、主に捧げて、義の僕となる事が求められています。ローマの信徒への手紙6 章19 節「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」人生の旅路を進めてゆくにあたり、私たちも、立ち止まって、主の光と聖別を受けてから出発すべきです。最後に、リュ・ホンジョンという方の「日々歩む霊性」の中から「神様の読点」という内容を受け留めます。「文章を終える時には、『句点』と呼ばれる記号をつけます。句点は、明確で、すぐに目につきます。
ところで、それがなければ、息が詰まりそうになる記号があります。それは『読点(、)』です。読点は、感嘆符のように心が動かず、疑問符のように質問せず、句点のように明確ではありません。しかし、読点のない人生は、大声や騒ぎ、争い、情熱に満ちています。
モーセにとって、ミディアンの荒野での生活は、読点のようなものでした。エジプトでの栄華と権威の人生から墜落した彼にとって、惨めな荒れ野での生活は、絶望と野望の断念という句点のように感じられたでしょう。しかし、神様は、そのようには考えられませんでした。神様は、彼を召し、新しい使命に導くための読点と考えられました。ですから、それは決して無駄な時間ではありませんでした。彼には、読点が必要だったのです。モーセは、それまで知らなかった日常生活における、いろいろなことを経験しました。羊の群れを世話し、わが子を育て、草地を求めて、あちこち移動しました。野生の花から生命力の強さを学び、夜空の星を見ながら、希望を見つけました。
また雨の中、幕屋を建てたり片づけたりすることも体験しました。ごく日常的な生活は、後に来る神様の偉大な働きに備えるための時間でした。剣と槍により、自分の手で神の国を築こうとする間違った情熱と妄想を捨てる時間でした。それは、召しと使命の意味を悟る時間であり、神様の文法に基づく偉大な読点だったのです。」
主にある愛する皆さん、私たちも、働きや奉仕の前に、先ず聖別され、主の光を受けてから、働きや奉仕に進んでゆくことにしてゆきませんか。お祈り致します。
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