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2021.7.11 先週の講壇 ヨハネの黙示録16 章1~11 節 「神様の激しい義憤」

牧師 松矢龍造


神様の激しい義憤は、神の怒りのぶどう酒に譬えられています。この神の怒りのぶどう酒は、前の時は杯に入れられましたが、今日の御言葉では七つの鉢に盛られていて、部分的な裁きではなく、その裁きは全体に及ぶ完全な裁きとなる事を示しています。またラッパが吹き鳴らされた時は、キリストを信じない者たちには悔い改めの機会がありましたが、鉢の場合は悔い改めの機会が残されていません。さらにラッパが吹き鳴らされた時の裁きは、いくつかの副次的な被害でしたが、鉢の裁きは、全ての攻撃を直接身に受けるものとなります。

この鉢による裁きでは、天使たちは恐ろしい裁きの為に従事すると聞くと、私たちは、とま

どってしまうかもしれません。光と栄光の満ちた天の御国に行く時、初めて私たちは、罪の本当の恐ろしさと、人間の背教の根深さを知ることでしょう。地上にいる私たちの基準は、世的で人間的なものに接しているうちに、弱められ、歪められがちなのではないでしょうか。

七つの鉢と、裁きが盛られた鉢には、完全数である7 が使われていますから、完全な創造主

なる神様の義憤が意図されています。神の怒りとは、原文では「激しい怒り」とも訳せます。神様の怒りは、人間の一時の激情にかられて、分別も忘れて、怒り狂うものとはまったく異なります。正しく吟味された義憤に基づく裁きが、神様の怒りです。はれ物が出来た人々は、獣の刻印を押ている人間たち、また獣の像を礼拝する者たちに対してでした。獣とは、ローマ帝国及びローマ皇帝を指します。そして獣の刻印とは、初代教会の時では、皇帝礼拝の儀式に参加したことを表すしるしでした。悪性のはれ物にしても、水が血に変わることも、出エジプト記と同じ主による裁きです。そしてもう一つ共通しているのは、パロ王が、これらの裁きを受けても、心をかたくなにし続けていることです。かつては、海が死人の血のようになって、三分の一が死んだのに対して、今度は、海の中の生き物は、すべて死に絶えたとあます。まさに裁きの全体性と、徹底さが強調されています。迫害によって神の民を殉教に追い込み血を流して殺した者たちに対しては正しい主の裁きがなされ、今度は彼らが死ぬ時となります。人々は、創造主なる神様を知らないのではなく、知っていながらなおも自己中心な生活を続けています。それが人間の悲劇であり、世界の悲劇です。機会があるうちに、今、創造主なる神様のもとに立ち帰ることが大切です。神様の警告を繰り返し無視していると、そのうちに神様の声が、まったく聞こえなくなってしまいます。

永遠の主なる神様は、聖なる方であり、正しいお方です。また全能者であり、この主の裁き

は真実で正しいです。この主のもとに、機会を失うことなく、悔い改めて、立ち帰りませんか。

またこの主の正義を、御聖霊様の助けを祈り求めながら行ってゆきませんか。

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