牧師 松矢龍造
起
以前読みました著書の一つに「あなたの神は小さすぎませんか」というタイトルの本がありました。本来の創造主にして救い主なる神様は、偉大な神様であり、全知全能で、計り知れなく大きな存在です。しかし自分の心の中で、小さな神様としていないかと問われる書物でした。
今日の御言葉では「主の手が短いというのか」と出てきました。その意味は、創造主にして救い主なる神様には、人々の必要を満たす力がないというのか」ということです。私たちに対しても、今の自分の直面している課題や問題の中で、「主の手が短いというのか」と言われているのではないでしょうか。
承
イスラエルの民、約240 万人は、荒れ野で、主なる神様の耳に達するほど、激しく不満を言いました。エジプトで奴隷生活を余儀なくされていましたが、それでもエジプトには、豊富にあった魚や、水気の多い野菜や果物も、乾燥した砂漠の中で得ることは、不可能に近いものでした。このような荒れ野での労苦と、この旅がいつまで続くのか分からないということが、民の不満のなかにあったでしょう。私がイスラエルの民であったなら、同じように不満を言ったなではないかと思います。
「激しく不満を言う」と訳された原文の言葉は「激しくつぶやく」あるいは「激しく不平を言う」さらに「激しく悪い」という意味でもあります。神様にお願いするのではなく、不満、不平となり、慈しんでくださる神様に信頼することを止めてしまっていました。
堕落した人間の生来の性質である肉の思いは、神様に服従出来ないのです。そしてここでもう一つの問題になっていることは、悔い改めの祈りがないということです。私たちの現在の信仰生活における思いは、どのようになっているでしょうか。今日の御言葉を通して、自己吟味の機会となりますように。
転
イスラエルの民が、激しく不満を言うと、主はそれを聞いて憤られ、主の火が宿営の端に下って、天幕が燃え始めたのでしょう。この主の火は、落雷となったか、あるいは落雷によって生じる野火であったかもしれません。聖書の中で、火は、神様の臨在を表すこともありますが、もう一つ、火は、神様の裁きのしるでもありました。
すると民は、モーセに助けを求めて叫びました。そしてモーセが、執り成しの祈りを捧げると、火は鎮まりました。私たちも、様々なことに批判をすることは容易いですが、執り成しの祈りを捧げることは、重要です。テモテへの手紙一2 章1~4 節「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」
ところが一旦イスラエルの民が、不満の声を止めるや、今度は同行していた他国人が、飢えと渇きを訴えると、イスラエルの民は、再び泣き言を言い始めました。5 節6節「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱や、にんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」
主なる神様は、荒れ野でイスラエルの民、約240 万人に対して、毎日食べることが出来るマナを降らせられました。しかし今度は肉がないと不平を言い出しました。モーセは、民の不信仰と、神様の怒りの板挟みとなり、耐えかねて、いらだちと不快感を露わにします。
14 節15 節「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください。」
主なる神様は、このモーセの嘆きの祈りに対して、三つのことをなさいました。一つは、70 人の長老たちに、モーセ対する預言の霊の賜物の一部をとって授けて、民の重荷を共に負うようにされました。神様からの霊は、神様によって圧倒された預言状態のことです。
今日も、共同体が大きくなるに連れて、一人では誰も負いきれません。共に共同体を担う同労者が、主にあって必要となります。私にとって、長老や執事や小グループのリーダー、そして事務や妻の助けが、必要不可欠です。もちろん、御聖霊の力が、全てに置いて必要です。
ここで妬みを捨てて、もしイスラエル人全員が、心を神様に明け渡して、御聖霊に満たされ、預言者のようになれるとすれば、それは素晴らしいことです。使徒パウロも同じようなことを言われています。コリントの信徒への手紙一14 章1 節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」
二つ目に、自分自身を聖別して、肉を食べる備えをするように言われます。それは後に、過度の貪欲によって身を滅ぼすことになるからです。節操もなく、肉欲を満たした人々には、激しい疫病が襲い掛かるからです。欲望は制御され必要があります。
アリストテレスという方が「歓楽の背後を見よ」と言われています。その意味は、「歓楽の背後に、不安と苦痛と滅びを見て戒めるべきである」ということです。主は民に対して、衣服を洗って、儀式的に自らを清め、性生活を絶つことを命じられました。これらによって、神様から与えられる贈り物に備えなければなりませんでした。
三つ目に、神様は、一か月の間、ウズラの肉を与えられました。ウズラは、茶褐色の小鳥で、普通4 から5 頃、群れをなして、アフリカからヨーロッパに向けて、季節風に乗って移動し、初秋には、再び南へ舞い戻ります。そのウズラが、3月か4 月の頃、大きな群れとなってパレスチナに渡ってくることもあります。主は、強風によって飛来したウズラをイスラエルの民にお与えになりました。
疲れて落下したのか、地表近くを飛んでいて捕まえられたのか。いずれにしも、イスラエルの民は、地上ニアンマほどの高さに積もったウズラの肉が与えられました。二アンマとは、約90cmのことで、少ない者で、10 ホメル集めたと言われています。1 ホメルは、ロバが背負える重さのことで、10 ホメルなら、200ℓ から400ℓ 位になります。宿営の周りに広げたのは、肉を日にあてて、乾燥させる為であったでしょう。
ところが、民の中には、貪欲になり、節操もなく、食欲を満たした人には、主の裁きとして、激しい疫病が下されました。実に欲望に対する教訓です。主の地上での裁きは、懲らしめと教育のためでもあります。
今日の御言葉を通して、私たちは、いくつかの教訓を受け留めることが大切です。第一に、不平と不満に繋がらないように、神様の過去における御業、現在の臨在の力、未来における望みを覚えて、週ごと、日々、瞬間瞬間、感謝と讃美と礼拝を捧げることです。
第二に、御聖霊の力を頂きたいと望むなら、私たちの人生を、神様の臨在で満たして頂き、キリストへの従順を強めて頂けるように神様に祈り続けることです。
第三に、神様が、荒れ野へ導かれたのは、教育と訓練と聖別により、約束の地カナンにおいて、全世界の祝福の基とならせる為でした。私たちが、祝福と聖別を頂くことは、隣人の為に祝福の基となり、教会としては、周辺地域や日本やアジアや世界に対する祝福と基となる為であるという目的や使命を忘れないようにすることです。
そして第四に、イスラエルの民が、荒れ野において、滅び失せなかったのは、主の恵みと深い主の憐れみと、モーセの執り成しの祈りによります。私たちも、主の恵みと深い憐れみ、すなわちキリストの十字架と復活、父なる神様の愛、御聖霊の助けによって、滅ぼされないで、すんでいます。
この主の恵みと憐れみに答えて、私たちも、モーセのように、執り成し委の祈りを捧げる歩となりますように。そして御聖霊の力にすがり、隣人に対する祝福の基として歩んで生きませんか。
最後に、「足りないことの益」というオ・ギュフンという方の教えを受け留めます。「社会問題として浮上している中毒や、それによる禁断症状は、私たちの人生において『Yes』が多すぎることによって生じるものです。何かが足りなかったり、なかったりするためではないのです。逆に言えば、『No』という声が上がらなかったことが問題です。
私たちの人生には、基本的に、出来ないことや足りないことがあって当然なのです。これを信仰的に言うなら、節制もしくは、調節がなければならなにいということです。中毒は、作られた本来の目的を知らずに、間違った使い方をしたり、乱用したりことによって生じます。
モルヒネは、もともと麻酔の目的で作られました。しかし本来の目的を知らなかったり、無視したりして乱用すると中毒になります。神様を知らず、被造物を通して満足と快楽だけを求めるなら、それは霊的な中毒と同じです。
足りなかったり、できなかったりすることがあるとしたら、それは私たちにとって益です。霊的な次元で益になるのです。神様が造られた世界の原理を見てください。鍵だけでなく錠も必要です。車には、アクセルだけではなく、ブレーキもなければ、運転できません。
私たちの人生には、祝福だけでなく、苦難もなければならないのです。聖書で、人生を荒れ野にたとえた理由は、この世の人生が、足りないことがある所、できないことが存在する所だからです。人にとって、真の祝福は、苦難の中で経験する恵み、荒野の火と柱と雲の柱、マナとウズラ、岩から湧き出る水なのです。」
主にある愛する皆さん、私たちの人生の欠乏においても、主の手は短くないことを、信仰と祈り、御言葉と御聖霊によって経験してゆく歩みとなりませんか。お祈り致します。
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