牧師 松矢龍造
起
聖書の中には、たびたび40 という数字が出てきます。40 という数字は、聖書では重要な数字の一つです。40は、文字通りの数の場合もありますが、長い期間を表す象徴的な数字でもあります。
旧約時代で言えば、ノアの洪水の際には、洪水が40 日40 夜続いたと表現されています。新約時代では、イエス様が、荒れ野で40 日間、試みを受けたとあります。
マルコによる福音書1 章12 節13 節「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエス
は四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
そして今日の御言葉では、イスラエルの民が40 年間、荒れ野での苦難の生活後に、約束の地であるカナンに入ることが許されるとあります。私たちも人生において、霊的な荒れ野での40 日間というものが、あえて許される時があるのではないでしょうか。私の人生や信仰生活の中にも、霊的な荒れ野の40 日間というものがありました。
承
12 人の偵察隊のうち10 人が、約束の地には入れないというと、イスラエル共同体は、不平と不信仰を言い続けました。14 章1~4 節をもう一度「共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。『エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。』そして、互いに言い合った。『さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。』
「一人の頭を立てて、エジプトに帰ろう」と訳された言葉は、「エジプトに頭を向けて帰ろう」とも直訳できます。もうイスラエル共同体の考えと心は、約束の地カナンに向かうのではなく、奴隷の地であったエジプトに帰ろうと決めていたということです。もう霊的な奴隷状態に、頭と心がなっていたことの象徴ではないでしょうか。
転
続いて5節「モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。」どうしてモーセとアロンは、会衆の前で、ひれ伏したのでしょうか。一つは、民の応答に対する失意と絶望を表現しています。二つ目に、事の重大さを印象づける行為でした。三つ目に、再考ための姿勢でした。四つ目に、執り成しの祈りを捧げる為でした。五つ目に、もはや事態を主に委ねるしかないと考えて、祈っていたのではないでしょうか。
さらに偵察してきたカレブとヨシュアは、衣を裂いて、イスラエルの人々の共同体に訴えました。
衣を裂くとは、悲しみを表現するものです。7節~9 節「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。
ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」
カナンの地を守るとものとは、カナンの住民を守るとする偶像の神々のことであり、それらはもともと無力であると訴えました。
これに対して、主なる神様は、栄光を表して言われました。11 節12 節「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」
主の栄光とは、目に見えない神様の輝かしい臨在と尊厳を指し示すものです。イスラエルの民は、これまで何度も、主からの奇跡のしるしを無視して、不平、不満、反抗を見せてきました。紅海の奇跡の時、モーセがシナイ山の頂上にいて麓に不在の時、マナの事、肉の事、水の事、そして今回の偵察の事です。何度も、不平、不満、不信頼、不従順を重ねてきました。神様から走り去ろうとするなら、必然的に、私たちも、問題に向かって走り込むことになります。
主は、一瞬にして民を滅ぼす可能性を示唆されると、モーセは主に訴え、民の為に執り成しました。13 節「モーセは主に訴えた。『エジプト人は、あなたが御力をもって、彼らのうちからこの民を導き上られたことを聞いて、この地方に住む者に伝えます。
彼らは、主よ、あなたがこの民のただ中におられ、主よ、あなたが目の当たりに現れられること、また、あなたの雲が民の上にあり、あなたが、昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって先頭に進まれることを聞いています。もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、あなたの名声を聞いた諸国民は言うことでしょう。
主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と。今、わが主の力を大いに現してください。あなたはこう約束されました。
『主は、忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われる方である』と。
どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」
私たちが祈祷会で祈るのも、モーセのようであることが求められます。この希望が丘教会の周辺地域や、日本およびアジア、そして世界中の民を、憐れんでください。
主はこのモーセの執り成しの祈りに答えられました。イスラエル民が、荒れ野で死んだほうがましだと願った民の願いに答えると宣言されています。しかし民の最初の世代は、荒れ野で絶えることになるが、憐れみを求めるモーセの祈りを聞いて、彼らの子どもが40 年の荒れ野での苦難の後に、カナンに入ることを許すと言われました。
ところが、これを聞くや、イスラエルの民の一部は、44節かまわず、山の頂を目指して、カナンの地に上ってゆきました。彼らは、神様の御心よりも、自分たちの判断を選ぶことは何も変わっていません。行けと言われる時に行かず、止まれと言われている時に行くのです。
「かまわず」と訳された原文の言葉は「高ぶる」あるいは「無思慮に振る舞う」という意味でもあります。ですから、「ほしいままに」あるいは「どんどん」と訳している他の聖書訳もあります。
44 節にあります「主の契約の箱とモーセは宿営から離れなかった」とありますのは、神様の御心ではなかったことと、カナンの地に、神様の祝福がない状態で入ってゆくことを示しています。
私たちは、この昔起きたことを通してどんな教訓を受けたらよいのでしょうか。コリントの信徒への手紙一10 章11 節「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」
第一に、人間の不信仰は、神様の計画を破壊するものではありません。しかし信仰的な勇気がないために、神様が備えられた祝福を得られない場合があるということです。
第二に、私たちは、どこに行くにしても、神様が私たちと共におられるかを、確かめた上で行動するものでありたいものです。
第三に、物事の判断において、もっと大きな視野で熟考するということです。四方八方という地上だけでなく、天からの垂直のことを踏まえて、神様と御言葉と共に、熟考することが大切です。
第四に、不信仰と反抗の末路は、信仰と従順の末路とは、まったく異なります。悔い改めて、不信仰と不従順でなく、信頼と従順によって、良い地に入り、祝福の基として、それぞれの置かれた場所、遣わされた場所で歩めますように。イスラエルの民が、40 年間も荒れ野ら留まらされたのは、不信仰と不従順のままでは、約束の地で祝福の基として使命が果たせないからではなかったでしょうか。
そして第五に、人は試練に遭うと、しばしば、それを克服するよりも、むしろ弱気になって、責任を放棄したくなります。主以外のものを恐れると、人は皆恐れに捕らわれて、弱気となって責任を放棄してしまいます。むしろ試練に打ち勝つ力を与えて下さいと祈るものでありましょう。
結
最後に、ナム・ウテクと言う方の「自分勝手に生きるところでした」という中から「父なる神様を呼び求めるとき」という内容を受け留めます。「クリスチャン青年が軍隊に入隊し、北朝鮮に近い部隊に配置されました。
新兵だった彼の軍隊生活は、不安で苦しいものでした。かれは志願して、他の人が行きたがらない夜中の1~2 時の間に、歩哨に立ちました。その時間帯は、みな深い眠りに落ちていて、大声で祈るのに都合がよかったからです。
ある日、その部隊長が、彼に一週間の特別休暇をくれました。そのようなことは、非常にまれなことでした。彼が休暇を終えて、帰隊報告をしたとき、中隊長が『それで、お父さんは大丈夫なのか』と尋ねました。実は、中隊長は、新兵が歩哨に立っていた時間帯に詰所の近くに行き、『お父さん』と言いながら、ため息をついたり、泣いたりしているのを聞いたのです。それで、新兵の父親に大きな問題が起きたと思い、家に帰らせたのでした。
時として、私たちの人生は、厳しい軍隊生活と似ています。生活や人間関係おいて、つらい状況になることもあります。しかし、心配していることについて、神様に祈るなら、サタンは震え始め、この世の人々は驚きます。新兵がもらった休暇のように、プレゼントが与えられこともあります。
どんな問題でも、神様に信頼して祈り求めれば、予想もしていなかった新しい門が開かれる祝福が与えられるのです。」
主にある愛する皆さん、私たちは日々、不信仰と従順になるのか、信仰と従順になるのか問われています。父なる神様に祈り、主イエス様から御言葉を頂き、御聖霊なる神様による平安と従順の力を頂いて、日々歩んで行きませんか。お祈り致します。
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