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2021.8.18コロサイの信徒への手紙 前半2 章8~9 節「キリストの内に満ち溢れる神性」

牧師 松矢龍造


新約時代2000 年の歴史の中で、キリスト教の異端は、どの時代にも現れました。その特徴は、キリストが神であることを否定する、いわば神性の否定です。あるいは、人となられたという人性の否定のどちらかです。もっと言えば、誤ったキリスト論であり、キリストを過小評価するものでした。

人間の救いの為には、イエス・キリストとイエス・キリストの教えと業とでは十分ではないとして、何かを絶えず加えようとしたのです。

さらに当時のだまし事は、人間の教えに過ぎず、キリストの上に、世の教えを置いたり、教会をキリストから引き離したりするものでした。ヨハネの手紙一4 章1~3 節には、この世の偽りの霊による教えを次のように言っています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。

このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」

今日の御言葉で、「人間の言い伝えにすぎない哲学」とありますが、使徒パウロは、哲学そのものを否定したのではありません。現にキリスト教哲学というものが存在します。哲学とは、世界と人間の存在について解明しようとする教えのことです。また知識を愛することでもあります。知識を愛すること自体が悪いのではありません。けれど主イエス・キリスト以外のところに知恵を求めるなら、それは悪となります。

キリスト教哲学は、世界と人間の存在を、キリストに基づいて解明するものです。そしてキリストの福音は、真の哲学と矛盾しません。むしろ使徒パウロは、人間の考えや経験だけに基づく人生哲学に対して批判的に書いています。

9節で「キリストの内にこそ、満ち溢れる神性が、余すところなく見える形をとって宿っている」と言われています。目に見えない神でありながら、見える形である人間となられて、神の御子は地上に来て下さいました。神性と訳された原文のギリシャ語は、「神の性質」とか「神である者の本質」とも訳せます。キリストの内に、神様の本質が表されました。本質とは、神としての栄光と力が中心です。キリストの内に、神性の充満が宿っています。神性の一つは、神様のみが、罪を赦す権威を持っていることです。

にもかかわらず、肉体は悪で、霊のみが善とする霊肉二元論であるグノーシス主義や、律法や割礼を行わなければ救われないとするユダヤ主義や、人間が知ることが出来るものだけに限るとした主知主義というものが、当時のだまし事の哲学でした。そしてキリストだけでは不十分という、偽の教えをしていました。

すなわちキリストだけでは、不十分なので、天使の力とか、天使を礼拝することを加えなければ救われないという教えが伝えられました。またキリストだけでは不十分なので、占星術を加えなければならないとも教えていました。あるいは、キリストだけでは不十分であり、割礼を受けなければならない。また禁欲的規則や慣習を加える必要があるというものもありました。すべて、この世の、騙し事が伝えられていたのです。これらの教えは、真理を持たず、また人を真に生かす力を持ちません。

これに対して、キリストの内には、満ち溢れる神性があり、知恵と知識の宝が一切ある。救いの為に、キリストのみで十分であるという福音を、使徒パウロは展開しています。

それでは、人間の言い伝えに過ぎない哲学や、騙し事に、とりことされずに気をつける為には、どうしたらよいのでしょうか。その為には、キリストから目を離さず、神の御言葉である聖書を学び続ける必要があります。そしてあらゆる教えと生活と倫理道徳に対して、キリストの言葉に基づかないものに気をつける必要があります。

キリストの言葉は、霊的にも、知的にも、実践的にも受け留める必要があり、真理の御霊様の照明の光が必要となります。コリントの信徒への手紙一2 章6~13 節「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。

わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」

コロサイの信徒への手紙が記された当時は、霊や目に見なない諸力が、人間の生活を支配すると考えられていました。それは今でも、悪魔と悪霊による誘惑や攻撃が人間生活に影響を与えています。ですから、ご聖霊による真理と力と愛が、私たちにとってどうしても必要です。

使徒パウロにとって「世」とは、しばしば神様や神様の計画に敵対する人々を意味していました。その人々によって迫害を受けて、ローマの獄中に使徒パウロはいました。けれど、使徒パウロに対して、主イエス様の御言葉の宣教を妨げることは出来ませんでした。主が味方であったあったからです。そして現在の私たち教会も同じ、主イエス・キリストの力に預かっています。使徒言行録28章31 節「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

そしてテモテへの手紙二4 章1 節2 節「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁く

ために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」ご聖霊様の助けと導きを頂いて、キリストの福音宣教と証しにつとめることができますように。(黙想の時)

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