牧師 松矢龍造
起
私たちが救われる為には、何が必要でしょうか。それはキリストのみで十分です。これが聖書の真理、真の福音です。何年か前に、プロテスタント500 周年という年がありました。かつて罪が赦されて救われる為には、キリストを信じる信仰だけでなく、免罪符を買わなければ救われないとカトリック教会が民衆に教えました。これに対して、聖書はそんなことを一つも言っていないとプロテスト・抵抗して出来たのがプロテスタント教会でした。
承
しかしコロサイの信徒への手紙が記された1900 年以上前にも、このような偽りの福音、偽福音が存在していました。キリストを信じるだけでは不十分なので、ユダヤ教の儀式の手助けが必要である。あるいはこの世の哲学という知識が必要である。さらには迷信の作り話が必要だ。人間の手柄や功績が必要であるとか、様々な偽りの教えがコロサイの街や教会に攻め寄せていたのです。
転
これに対して、使徒パウロは、キリストは、全ての支配や権威の頭です。すなわちキリストは、すべての力の頭であるから、キリストを得ていれば、私たちには、他に何物をも必要としません。
あなたがたは、このキリストにおいて満たされています。それが今日の御言葉の中心です。
主イエス様を信じた者は、ユダヤ教の儀式の手助けなしで満たされています。また、この世の哲学の助けなしで満たされています。さらに迷信の作り話なしで満たされています。そして人間の手柄や功績なしで満たされています。
これらの中で、今日の御言葉は、特に割礼のことが言及されています。割礼の始まりは、旧約時代のアブラハムにまで遡ります。創造主を信じて、信仰によって救われた印として、男子は皆、生殖器の前の皮を切り除くという割礼を受けることが命じられました。しかしこの割礼は、内面の信仰があってのみ生きます。
単に形式的に割礼を受けても、何にもなりません。新約時代は、割礼に代わって、洗礼が命じられました。この洗礼も、形式的に受けただけでは、何の変化もありません。心で信じて義とされ、口でイエス様は、神の御子・救い主と信じる聖霊のバプテスマを受けてこそ、水の洗礼は有効になります。
そのことを、使徒パウロは、キリストの割礼と表現しています。あるいは御霊による心の割礼とも表現されます。キリストにおいて、人間の手によらない割礼です。
このキリストの割礼は、肉の体を脱ぎ捨てると表現されています。肉と訳された言葉は、霊に対比される言葉であり、神様に対立する支配力のことを肉と表現しています。すなわち肉とは、神様の霊によって支配されて服しているべき人間の人格全体を、別ものが支配している。それが肉です。
この神様の御心に逆らう全てを、私たちの生活に中から切り捨てることを、肉の体を脱ぎ捨てると言っています。それがキリストの割礼です。主キリスト様だけが、神様の従順な子どもとなるのを妨げている全てを切り離して下さいます。イエス様だけが、人間の生活と本人から、不従順な肉を切り離すところの、霊の割礼を施すことがお出来になります。
新約時代は、先ほど言いましように、割礼は洗礼に代わりました。洗礼によって、キリストと共に、私たちの罪の体は霊的に死んで葬られました。そしてキリストと共に復活させて頂くのです。
それは、キリストを死者の中から復活させた父なる神様の力を信じることが用いられて適応されます。
罪の赦しと、復活の命に預かる恵みは大きな救いです。しかしそれだけでは救いの全てではありません。加えて悪い欲望から解放して頂き、利己的な性質が取り除かれることも救いの中に入っています。加えて洗礼は、神様に対して献身して行くことのしるしです。割礼は、神様に対して献身した人の印でしたが、現在は、洗礼を受けることが、神様への献身のしるしです。
霊のバプテスマによって、罪深い自己全体が滅んで、新しい生命、すなわち神様の聖さに満たされます。神との関係における霊的な面では、キリストを信じた瞬間に与えられます。しかし実際の生活における神様の聖さは、日々頂き続ける必要があります。ただ一つの真の割礼は、バプテスマにより、キリストと共に死んで、キリストと共に復活することです。そして日々、ご聖霊の助けを頂き、生活が聖化され続けます。
結
キリストは万物の頭です。このキリストを内側に頂いているなら、全てに満たされています。しかし私たちは、救いはキリストから頂きましたが、生活は自分の肉の力でとしていることが多いのではないでしょうか。
救いだけでなく、キリストとその福音は、生活のよりどころです。コリントの信徒への手紙15章1節「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」キリストの内住の実、ご聖霊様の実を日々、瞬間、瞬間、私たちは必要とします。
ユ・ジェミョンという方が、「涙」に関して次のように言われていました。「涙を流したことがない人はいません。人々は一日でも早く、自分の人生から涙をなくしたいと思います。またその涙をぬぐおうと、精一杯努力を惜しみません。お金を稼いで金持ちになれば、涙を流さずにすむと思っています。出世すれば、再び涙を流さなくてもいいと思っています。
しかし、金持ちになり、力を蓄えても、また涙を流すことになります。金持ちは金持ちなりに、貧しい人は貧しいなりに、流す涙があります。問題は、人間には、基本的にその涙をぬぐう力がないということです。では、彼らの涙の本当の意味は何でしょうか。その涙は、実は神様に向かっているということを知っていますか。その涙が、神様を捜し求めている証拠だということを知っていますか。涙が流れるほどの苦難の中にいるなら、苦難と涙の解決をしてくださる方は、神様だけだということを覚えてください。神様の前に出て、私たちの涙をぬぐって慰めてくださいと、切に求めてください。」
苦難や涙や罪は、神様でなければ、根本的に解決して頂けません。救われる為にも、日々生活するためにも、絶えず神様に向かって、神様の御前で、打ち勝つ力を切に求めることが常に大切です。キリストの割礼を施して下さる主イエス様に常に求めて、歩んでゆきませんか。お祈り致します。
(黙想と祈り時)
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