牧師 松矢龍造
起
神の民と、世の民の違いは何でしょうか。それは外見というよりも、内面が聖別されているということではないでしょうか。イ・フンという方が、「イエス様へと向かう道」という中で、「同じものと違うもの」ということで、次のように言われていました。
「神様は私たちを『聖なる国民』として召してくださいましたが、『聖なる』とは、どういう意味でしょうか。それは、目に見えるような区別を意味するのではありません。外側には何も違いがありません。私たちは、この世の人々の良き友であり、隣人であるために、この世の人々と同じものを着、同じものを食べ、同じように生きていますが、見えない領域で違いがあります。それこそが、『聖なる』ということです。」
承
「外見に違いがなくても、見えない領域に違いがある宣教師的な生き方が『聖なる』生き方なのです。イエス様も、地上で過ごされたとき、見た目には、ほかの人々とあまり変わりがありませんでした。平凡なユダヤ人の中で、ユダヤ人として過ごされ、彼らが着ているものを着、彼らが食べるものを食べられました。しかし、イエス様の心の中にあるものは、まったく違っていました。
考え方が違い、夢と目標、価値観、人生の優先順位が違っていました。イエス様は、人生の方向、この世を見る目、人に対する態度が、ほかの人々と違っていました。見た目は同じなのに、イエス様の中にあるものが違っていたのです。それがイエス様の聖さでした。
神様の言葉によって内面がきよくなり、外側は同じでも中身が変わること、それが、主が私たちに求められる『聖さ』なのです。そのように生きるとき、周囲の人々が、『ああ、あのように生きる人もいるのか』と驚き、私たちを羨望の眼差し見て、倣おうとするでしょう。私たちは、『違いを通して』世の中から聖別された神様の教会にならなければなりません。」
転
神の民とされたイスラエルが、出エジプトして、荒野を経て約束の地に入る時、それは内面において聖別された民として入国し、全世界に対する祝福の基とされる使命に生かされ
ることが重要でした。それ故に、荒野において、内面が聖別される機会が必要とされました。それはモーセと共に指導的な立場にあって、姉のミリアムと兄アロンについても言えることでした。
イスラエルの民が、ハツェロトにいたとき、ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで、彼を非難しました。これは妻のことを表面上非難していますが、本質は弟に指導権が握られていることや、その妻に対しても、民の注目が集まっていることに対する、競争心、党派心、そして妬みでした。
そして神様が立てられた人であるモーセの権威に対する態度だけでなく、神様に対する態度にも問題があったということです。主が立てられた人を非難することは、主を非難することになります。
どうしてこの時になって非難したのでしょうか。モーセが妻とした女性はクシュ人と言われています。クシュとは、アフリカのエチオピヤのことで、クシユ人は黒人です。モーセの妻は、ミデアン人のチッポラであったことがすでに記されています。それで、黒人の血が混じった婦人であったのか、それともチッポラの死後、クシャ人の女性を妻としたのか、どちらの可能性もあります。
いずれにせよ、今まで弟に民の主導権があることを姉と兄はおもしろく思っていなかったのではないでしょうか。加えて、アロンは祭司、ミリアムは女預言者として、モーセに次ぐ権威者と思っていた。ところが妻が加わると、民は指導者としてのナンバー2 が、自分たちではなく、モーセの妻になっているのではないかと思ったのではないでしょうか。
それで異邦人の妻ということを口実にして、権力を自分たちが握ろうと思ったのではないかと考えられます。この罪が、共同体全体を、一週間も、ハツェロトに停滞させ、一人の罪が、共同体を煩わせることになってしまいました。この後、アカンという人が聖絶物に手を出して、イスラエルの民が敗北するということが起きます。まさに罪は、個人に止まらず、共同体に悪影響を与えてしまいます。
かつてアダムとエバの長男であったカインが、弟アベルを殺害した理由は妬みでした。またヤコブの子どもたちが、兄弟のヨセフをエジプトに奴隷として売ったのも妬みからでした。妬みは、兄弟姉妹を、他人にしてしまいます。
さらに主イエス様の弟子たちも、イエス様がまさに十字架につけられる直前まで論じていたことは、誰が一番偉いかということでした。そしてユダヤ人たちが、主イエス様を殺そうとしたことも、妬みによりました。妬みは、実に恐ろしい罪となります。マルコによる福音書15 章10 節「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」
ところが、この非難を聞いたモーセは、どうでしたでしょうか。3節「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」とあります。妬みと非難を浴びせたミリアムとアロンに対して、モーセは、謙遜で、柔和であったと言われています。モーセから、ミリアムとアロンに対する非難の言葉は見られません。
むしろ主は、ミリアムとアロンの非難を聞かれ答えられました。4~8 節「主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。『あなたたちは三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。』彼ら三人はそこに出た。主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、『アロン、ミリアム』と呼ばれた。二人が進み出ると、主はこう言われた。
『聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う。あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか。』」
モーセは、特別な預言者として召し出されています。主と顔と顔を合わせると表現されるほどに、親しく主と交わり、主の御言葉を頂くところの、特別な主の僕です。それで主は、ミリアムに対して、罰を与えられました。
9節10 節「主は、彼らに対して憤り、去って行かれ、雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。」
主は、この非難を、ミリアムへの重い皮膚病によって静められました。
アロンに対しては、どうして重い皮膚病の罰が与えられなかったのでしょうか。アロンは、薄志弱行の人でした。おそらくミリアムに唆されて、モーセを非難することに加わったのでしょう。かつてモーセがシナイ山にいて、麓に不在であった際、民の要求に負けて、金の偶像の牛を作ってしまった時もそうでした。
11 節~13 節「アロンはモーセに言った。『わが主よ。どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来た死者のようにしないでください。』モーセは主に助けを求めて叫んだ。『神よ、どうか彼女をいやしてください。』」
アロンは、直ちに、自分の罪を正直に認めました。アロンが、自分の罪を告白し、更にモーセに向かって、ミリアムを執り成す祈りを請う姿勢は、私たちへの示唆に富んでいます。
罪を犯したなら、私たちも直ちに悔い改めて、罪を告白し、赦しを求め、他の人も同じ罪を犯しているなら、執り成しを請うことが大切です。
14 節「しかし主は、モーセに言われた。『父親が彼女の顔に唾したとしても、彼女は七日の間恥じて身を慎むではないか。ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる。』」父が娘の顔に唾をすることは、娘が不品行なした場面です。それと同等の罪がミリアムにあると、主から見られたと言うことです。宿営の外に一週間出されて隔離され、その後に宿営に戻ることができました。
結
自分の罪の為にも、隣人の罪の為にも、私たちは、主に祈ることが大切です。最後に、チョ・ヒョンヨンという方の「難関を突破する祈り」という内容を受け留めます。「以前、日本で仕事を探していたとき、一寸先も見えないほど真っ暗でした。日本語もまだ自由に話せない頃で、理由もなく胸が苦しくなり、恐れに包まれることがよくありました。
私は、子どもの頃に教わった『突破のための祈り』をささげました。神様に向かって大声で叫び、恐れている状況を突破するための祈りです。私は、祈りを通して、単に恐れを振り払うだけでなく、自分の信仰がもう一段、飛躍することを願いました。
夜遅く、だれもいない礼拝堂に行って座り、まず低い声で祈り始めました。神様だけを見上げ、私の細胞一つ一つが、すべて神様に反応するように集中しました。神様の臨在を一心に求めながら、祈りに没頭しました。そして全能なる神様の御前で、精一杯大きな声で、『全能なるナザレのイエス・キリストの御名によって命じる。神様のしもべチョ・ヒョンヨンは、信仰によってさらに飛躍し、勝利する』と宣言しました。
礼拝堂が震えるかと思うほど大声で叫び、神様の栄光を讃美しました。そのように力いっぱい叫んでいると、以前とは違った自分自身を感じることかできました。まるで自分を縛りつけていた鎖が解けたような感覚でした。神様が困難を与えられるのは、私たちの信仰をグレードアップさせるためである場合があります。そんなとき、私たちがするべきことは、挫折したり、失望したりすることではなく、祈ることです。神様だけに集中する祈りこそが、難関を突破する道なのです。
祈りの後に、ミリアム、宿営地に戻り、イスラエルの民は、出発することかできました。私たちも、窮地の時、祈り、祈られ、執り成しの祈りを捧げながら、主にある悔い改めと回復、飛躍と再出発が出来ますように。お祈り致します。
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