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2021.9.29民数記17 章1~26 節「皆で主に仕え、互いに仕え合う愛の共同体」

牧師 松矢龍造


主の御前では、誰でも、みな同じ存在です。特別な人はいません。皆、罪人であり、同じ救い主によって救われた者たちであり、同じバプテスマを受け、御聖霊様を受けて、同じ聖餐式に預かり、教会において、同じ聖書によって養われています。

しかし神様と人に仕える賜物が、少しずつ分け与えられ、皆異なっています。この同じ面と共に、異なる面の両方の理解と受容が必要です。

エフェソの信徒への手紙4 章1~12 節には、新約時代においても、この原則が貫かれていることが分かります。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

そこで、『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。

この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

前回の所で、コラ、ダタン、アビラムらの反逆が裁かれ、250 人の香炉も、焼かれました。香炉は、神様に香を捧げるために使われたので、聖なるものと見なされました。主は、焼かれた250 の香炉を、焼け跡から取り、それを打ち延ばして、祭壇の覆いを作るように命じました。

これはイスラエルの人々に対する警告のしるしとされました。すなわちアロンの子孫以外の者が、主の御前に近づき、香を捧げてはならないことをイスラエルの人々に思い起こさせるためでした。そしてコラとその仲間のように、滅ぼされない為でした。

民数記では、レビ族のうち、アロンの家系は祭司となりますが、他のレビの家系は、祭司に仕えて聖所で働くとされています。主は特定の奉仕のために、特定の人を召し出してお用いになります。

主の御心に対して、誰も不平を言ってはなりません。

しかし人間の心の中にある妬みと傲慢は、誰の心の中にも、多かれ少なかれ存在するのではないでしょうか。しかし学問や才能の他に、別に神様からの召しを受けてこそ、立ち上がります。弟子たちも、主の召しを受けて、直ちにこれに従いました。マルコによる福音書1 章17~20 節「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」

しかしこの弟子たちも、誰が一番偉いかと、イエス様が十字架に付けられる直前まで、争っていました。ですから、誰でも警告のしるしを必要としています。再び、民が、同じような過ちを犯さないため、滅びへの危機を招かないために、妬みと傲慢の罪に注意が必要です。

ところが、6節、翌日、イスラエルの共同体全体は、モーセとアロンに逆らって、「あなたたちは、主の民を殺してしまったではないか」と不平を言いました。コラと仲間たちを裁かれたのは、主なる神様です。ですからイスラエルの共同体が、モーセとアロンに逆らい、不平を言ったのは、主なる神様に対して、逆らい不平を言ったことになります。

すると主は、イスラエル共同体に対して、疫病による裁きを民に対して下されました。どのような疫病に襲われたかは不明です。神様に従わなかったり、逆らったりする者を、神様は時に疫病を用いて罰することがあります。

するとモーセとアロンは、イスラエル共同体の為に、香をたき、民の罪を贖う儀式を行い、死んだ者と生きた者との間に立って、執り成しました。すると災害は治まりました。この災害による死者は、1 万4 千7 百人でした。主が立てられた人に逆らう愚かさと共に、民の為に執り成すことの必要の両方を覚えます。

主は続いて、イスラエルの12 部族に対して、それぞれ一本ずつ、杖に名前を書き記して、臨在の幕屋の掟の箱の前に置くように命じました。杖は、指導者の力と権威を表していました。掟の箱は、幕屋の至聖所にありましたが、ここに入れるのは、モーセと、大祭司しか入ることが許されませんでした。この各部族ごとの杖のうち、その枯れた木の杖から、芽を吹くなら、その部族が神様から選ばれている、しるしとすると主から言われました。

イスラエルの父祖の家は、ここでは12 部族を指します。通常、カナンでの約束の土地が委ねられるのは12 部族ですが、その中にはレビ族が含まれていません。従って、レビ族を除いた12 部族の杖12 本に加えて、レビ族のアロンの杖が、掟の箱の前に置かれたとも考えられます。

するとアロンの杖だけに、芽が吹き、蕾をつけ、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいました。

枯れ木に花が咲くのは、死から命に変えられるために執り成す役割を象徴しており、その役割がアロンとその子孫のみに委ねられていることが示されました。そしてこの芽を吹いたアロンの杖を、掟の箱の中に入れて保管し、反逆した者たちに対する警告のしるしとするように、主はモーセに命じました。モーセは、主が命じた通りに行いました。

私たちは、主のなされた御業を思い起こす為のしるしに、注意を払うことが大切です。讃美、祈り、御聖霊、聖餐式、洗礼式を通して、神様の臨在のすべての印に注意を払うことを大切にしましょう。

私たちは、妬みと傲慢に対して、聖化される必要があります。それは日常生活のどの場面でも必要なことです。カン・ジョンフンという方が「どのように聖化されましたか」というタイトルの中で、次のよう言われていました。「私たちは、どのような領域で聖化されるべきでしょうか。

私たちの性格が、十字架によって絶えず点検されておらず、口と教理だけで聖化を語ることは、A.W トウザーの言葉を借りるなら『宗教的なままごと』にすぎません。教会は、このような人々によって、度々非難の対象となります。聖書の知識は、博士レベルなのに、態度や行動が無礼な人々のために、教会はいつも悩まされます。

聖化とは、品性から始まって、日常生活の中で現れなければなりません。『聖化』と言えば、祈る姿、手を挙げて讃美する姿を先ず想像するかもしれません。しかし、それは聖化へと入ってゆく扉であり、聖化の本質はありません。聖化の場所は、礼拝堂だけではありません。

生活の聖化がなく、礼拝堂だけで見せる聖化あるなら、それは『ゲットー』聖化と言えるでしょう。ゲットー(ghetto)とは、中世ヨーロッパでユダヤ人を強制隔離した移住地域を指す言葉でしたが、今日では、少数民族が隔離されて住んでいる地域を指すこともあります。

ゲットー聖化、つまり隔離的な聖化あれば、私たちは塩気を失った塩にすぎず、この世の噂話の的になるだけです。正しい聖化は、高速道路のサービスエリア、祝日の家族の集まり、保護者会PTAなどでも表れなければなりません。

隣席のクリスチャンに優しく微笑みながら挨拶すること、過ちを犯したらすみませんと謝ること、時間を厳守することなど、小さなことからクリスチャンらしく生きなければならないのです。生活において聖化された姿を見せるとき、教会らしい教会、クリスチャンらしいクリスチャンになれるのです。」

神様に愛されている皆さん、妬みや傲慢の罪をはじめ、日常における品性においても、聖化された歩みが、キリスト者にふさわしいです。日々悔い改めて、御聖霊の実を祈り求めてゆきませんか。そして皆で主に仕え、互いに仕え合う姿を、世に示すことかできますように。お祈り致します。

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