牧師 松矢龍造
起
主の律法を覚えて、悔い改めて罪の贖いに預かる。また安息日を覚えて礼拝を捧げる。そして衣服などに、しるしをつけて主の全ての命令を思い起こして守り、自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしない。
これらは全て、常に主なる神様との関係が正しくなり、聖なる交わりを神様となすためです。これが神の民の本分です。いつも主なる神様との関係がどうであるか。それを第一にして、日々の信仰生活を歩めますように。
承
今日の御言葉には、献げもの関する補足と、安息日の違反に関してと、衣服の房のことが示されています。最初の献げ物に関しては、将来において、必ず約束の地であるカナンに入ることを確信して、約束の地に入ってから、執り行うべき奉献式についての補足がなされています。
また献げ物には、農産物である穀物、オリーブ、ぶとう酒が含まれていることから、この規定は、イスラエルの民が、定住した後の時のことを反映していると考えられます。私たちも、天の御国に入れることが、キリストにあって確かであることを覚えて、神の民、あるいは神様の子ども、そしてキリストの花嫁にふさわしくなるために、これらの律法を覚えて、これを御聖霊によって、守り行うことが出来ますように。
転
献げものには、いくつかの種類がありました。一つ目は、特別の誓願を果たすために献げものをするということです。誓願とは、願いがかなった時に、何を献げるかを明確にして誓うことです。
和解の献げ物を、誓願の献げ物にすることに関しては、レビ記22 章21 節に、このように記されています。「もし、和解の献げ物を主にささげ、満願の献げ物、あるいは随意の献げ物として誓いを果たす場合には、神に受け入れられるよう傷のない牛または羊を取る。どのような傷があってもいけない。」
二つ目に、随意の献げ物とは、和解の献げ物の一つで、誓願のためでもなく、律法が命じているからでもなく、自発的に献げるものです。
三つ目に、焼き尽くす献げ物とは、動物の皮などを除いた動物の一切を、焼き尽くして煙にして、主に献げるものです。焼き尽くすの原義は「上る」であり、動物を焼く煙が、神様のもとに上って行くことに由来します。
四つ目に、和解の献げ物は、動物の脂肪祭壇で焼かれ、祭司たちが肉を取った後、奉納者と祭司が会食することのできる唯一の献げ物です。それは神様の平和が成立したことを祝う献げ物もあります。
五つ目に、穀物の献げ物は、小麦やパンなどを献げて、神様への感謝を表す献げ物です。ここでの穀物は、おそらく小麦粉です。
六つ目に、純粋のオリーブ油は、オリーブの実をすりこぎで砕き、布でこして作りました。このような油は、料理に使われるだけでなく、ランプで燃やす灯し油ともされました。
七つ目に、ぶとう酒は、祭壇の台座に振りかけたのでしょう。いけにえの動物が高価になるほど、穀物とぶどう酒の量も増えています。さらに供え物の分量については、時期と状況によってかなり変化しています。
これらの規定は、イスラエルの民だけでなく、寄留している人、すなわちイスラエルの民の中に住んでいた、非イスラエル人にも要求されています。ですから、全ての民が、律法に触れ守り行うことが求められます。
もし共同体が律法を破った場合には、たとえそれが意図したものでなかったとしても、献げ物が要求され、共同体全体の赦しが必要とされました。レビ記4 章13~19 節に次のようにあります。
「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。
共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。次に、血を臨在の幕屋の中の主の御前にある祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、臨在の幕屋の入り口にある焼き尽くす献げ物の祭壇の基に流す。
脂肪はすべて切り取って、祭壇で燃やして煙にする。」
32 節から36 節には、安息日の違反に関して記されています。イスラエルの安息日は、週に1日、仕事を休む日で、金曜日の日没から土曜日の日没までとされています。安息日に、火をたくことは、禁止されていました。出エジプト記35 章2 節3 節「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。
安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。」
安息日に薪を集めることが見つかると留置しておきました。それは薪を集めることが労働にあたるか、あるいは労働に当たるが、どう処罰すべきかが、まだ定められていなかったということでしょう。石打刑は、イスラエルでは一般的な死刑の方法でした。安息日に働くことは、重罪に当たる罰でした。そして処刑地を宿営の外で行うのは、清さを保ためでした。過って罪を犯した時は、過失の罪ですが、贖いの儀式をすると、罪が赦されますが、故意の罪は断れます。
37 節からは、衣服の四隅に房を縫い付けることが記されています。房は衣服の四隅に付いており、歩くと揺れ動きました。その揺れを見ながら、神様の掟と教えに従うことを思い起こさせました。現代のユダヤ教の祈祷用の肩掛けに、房がつけられていると言われます。
これら奉献式、また安息日、そして衣服の房の規定は、全て神様との交わりの機会となりました。
青色の紐は、海もしくは、空の象徴と思われますが、ひいては被造物世界と天空のかなたにいます、神様の存在を指しています。
それらを見る度に、イスラエルの人々は、神様を覚え、神様と交わり祈り、みだらなことや、偶像礼拝を避け、自分が聖なるもの、神様に属するものであることを自覚しました。目に見える房を手がかりて、目に見えない主なる神様との、聖なる交わりに入る機会としました。さらに恵みによって救われた特権と使命を想起する機会ともなりました。
現代の私たちも、日々の静思の時や、主の日の礼拝、そして聖餐式などの印を通して、全ての生活は、神様に守られていることを想起して、心からの感謝を込めて、最も良い部分を供え物としたり、主と隣人を愛したりすることになりますように。
39 節で「思い起こす」と訳された原文の言葉は、「覚える」「記念する」という意味でもあり、「見る」と訳された言葉は、「分かる」あるいは「理解する」という意味でもあります。これらが命じられている背景があります。それはサタンの世界に生活している人間が、どれほど簡単に創造主を忘れやすいか。主は知っておられたということの裏がえしです。
結
神様と正しい関係となり、聖なる交わりをする為に、必要なことを確認します。第一に、主がなしてくださったことを思い起こすことです。創造主の御業や、救い主なるキリストの十字架の御業を思い起こすことです。その為には、三大節の祭り、主の日の礼拝、聖餐式、日々のデボーション、御言葉を学ぶクラス、定期的に退修・リトリートが必要です。
第二に、信仰は、成長し続けて、無私無欲になってゆく、聖化が生涯必要であるということです。
第三に、主が最も喜ばれることは何か。それを覚えて、委ねられた賜物を、その為に用いてゆくことです。
第四に、試練を通して、主の言葉によって生きることを学ぶことです。申命記8 章2 節3 節「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」第五に、神様と交わる時、心から神様を喜ぶことです。
最後に、神様との正しい関係の為には、悔い改めが、生涯必要だということです。宗教改革者の一人、マルチン・ルターは、信仰生活は、悔い改めの生涯であると言っています。「真の悔い改めを経験しましたか」というパク・ハンスという方の内容を受け留めて終わりにします。
「ある漁師が、酒に酔って夜遅い時間に海辺に行き、本能的に舟をこぎました。明け方、酔いが冷めた漁師は、夜通し櫓を漕いだのに、ちっとも前に進んでいなかったことに気づいて驚きました。
なぜ舟は動いていなかったのでしょうか。それは、いかりを解いていなかったからです。
私たちの人生の目的は、イエス様を信じて救われ、天の御国に行くことです。ですから礼拝をささげ、祈り、みことばを読み、奉仕もします。涙を流して罪を悔い改め、みことばに従い、憎い相手も赦そうと努めます。ところが、ある瞬間に、振り返ってみると、以前の出発点に再び戻っていることがあります。
理由は何でしょうか。信仰が弱いためでもありますが、真に悔い改めていないからです。本当の意味で、悔い改めていないので、私たちの信仰が、そのままの位置で、回っているだけだったのです。真の悔い改めは、救いとつながっています。真の悔い改めなくして、信仰の前進と変化は続きません。
リチャード・バックスター牧師は、このように言っています。『悔い改めた人は、悟り、意志、決断、悲しみ、希望、愛、喜び、考え、言葉、人間関係のすべてが新しくなります。自分の欲求を満たすことを目標としていた人が、悔い改めれば、神様と永遠の栄光に至る人生を目標とするようになります。』あなたは、イエス・キリストの十字架の血潮によって真の悔い改めをなしましたか。」
主に愛されている皆さん、絶えず、悔い改めて、主との正しい関係になりますように。十字架と復活の主と御聖霊の助けを祈り、他の人の為にも執り成してゆきませんか。お祈り致します。
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