2022.1.1新年礼拝_詩編90 編1~12 節 ヨハネによる福音書3 章16 節
- CPC K
- 2022年1月2日
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「聖書の告げる愛と死と永遠の命」
牧師 松矢龍造
起
新年あけまして、おめでとうございます。古今東西、老若男女が求めているものは、愛と死と永遠の命だと言われています。哲学と宗教、文学と音楽も、そのテーマは、愛と死と永遠の命と言ってもよいと思います。
しかしこの世では、問うても、答えがないという人が多いのではないでしょうか。私も学生時代に、親子や隣人との愛のこと、死の意味と解決を求めても、誰も答えてくれそうにありませんでした。母親は、入退院を繰り返しており、病の先の死と孤独の思いを、幼い頃より持っていたのではないかと思います。
昨年は、コロナ禍、天に召された方の納骨式をしました。最期の時を、病院に行くことも出来ず、遺骨として戻って来た方の納骨でした。あるいは、一人暮らしの方で、孤独死にならずに入院、しかし入院先でコロナにかかり、その後老衰で召された方の葬儀礼拝もありました。以前にもまして、愛と死と永遠の命について、考えさせられる時でした。
承
新しい年が今日から始まりました。あらゆるものには時があります。生まれる日も、死ぬ日も、愛する時も、そして永遠の時について、人間は考えることが出来る存在として、創造主によって造られたことが、聖書を通して告げられています。旧約聖書コヘレトの言葉3 章1~11 節には次のように記されています。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
転
これは、旧約時代、この世の知恵、財産、名声、妻と側目が千人、文学的な才能、事業の才覚など、あらゆるものを持っていたソロモン王の言葉と言われています。そして、たとえこれらのものを全て持っていても、魂の核に、神様を入れていなかったなら、全て空しい。また死の解決がなければ、全て空しいと告白しています。
さらに新約聖書の使徒パウロは、愛がなければ、全ては空しいと言っています。コリントの信徒への手紙一13 章1~3節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
今日の御言葉は、旧約時代の著名な預言者であり、律法を創造主から託された人、さらにイスラエル民の指導者にして、神の人モーセの詩です。天と地が造られる前から、永遠の神様である方に向かっての祈りの言葉でもあります。3節「あなたは、人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります」。
聖書によれば、創造主は、最初の人間を塵から形造られ、鼻に命の息、霊とも魂とも呼ばれるものを入れて下さり、人は生きた者とされました。創世記2 章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
しかし同じ創造主は、神の時に人をこの世に誕生させ、そして神の時に、塵に返す、すなわち肉体の死とならせます。死の原因は、人間が創造主なる神様に背き、離れ、罪を犯した為に死が訪れたと記されています。創世記2 章17 節「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」新約聖書ローマの信徒への手紙6 章23 節「罪が支払う報酬は死です。」
幼い頃から、母の入院先を尋ねて、死の陰に怯えていた自分を振り返ります。どこに死の解決があるのだろうか。宗教とは、死の解決を与えてこそ、真の宗教です。いまだ生が分からないのに、どうして死後のことが分かろうかとう言葉しかありませんでした。また死の解決はと問うと、沈黙しているだけの宗教がありました。
哲学に問えば、自分は不完全なものであり、無知な者であり、有限な者であることは語っていても、完全や全知、無限の存在については、何も語ってくれません。しかし聖書に初めて触れた時、神の言葉として、スポンジが水をいきよいよく吸い込むようにして、旧新約聖書を、むさぼるように読み進めました。
神の言葉と言われる聖書は、古今東西、老若男女が求める、愛と死と永遠の命について、何と言っているのか。誰が解決を与えてくれるのか。誰も答えてくれなかった問いの答えを求め続けました。そして神の御子キリストにこそ、愛と死と永遠の解決を与えて下さる、唯一のお方であることが、導かれたのです。
ヨハネによる福音書3 章16 節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネの手紙一4 章7~10 節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
創造主に背を向け、離れ、神との調和、自分自身との不調和、隣人との不調和、自然との不調和を抱えている人類、そしてこの私自身。この私たちを、裁いて滅ぼすのではなく、むしろその私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかり、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に復活為に、この世に来てくださったのが、神の独り子なるイエス・キリストというお方です。そしてこのお方を信じるなら、罪が赦され、永遠の命が与えられ、真の命ある人生に変えて頂けます。ローマの信徒への手紙6 章20~23 節「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
死の後の世界は、永遠の滅びである地獄か、あるいは神の御国すなわち天国かが、最終の行先です。天の御国は、使徒パウロよれば、義と平和と喜びの国と言われています。ローマの信徒への手紙14 章17 節「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
義とは、キリストの十字架による犠牲によって、神様との関係が正しくされたことです。また平和とは、キリストによってもたらされた神様との平和が、自分自身との平和、隣人との平和、自然界との平和が与えられることです。今は台風や竜巻、地震やコロナ禍、自然との調和は、求めてやまないものです。
そして喜びとは、一時的な喜びではなく、神様を喜び、祈りと感謝により、ご聖霊によって与えられる天的な喜びです。永遠の命と永遠の愛に基づいた喜びです。そして天の御国では、地上の悲しみや悲惨さが存在しません。ヨハネの黙示録21 章3節4 節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
結
愛と死と永遠の命の解決は、唯一キリストにある。それは、二千年間受け続けられた信仰の歴史でもあります。昨年は、東京オリンピック・パラリンピックがあり、今年は冬期オリンピック・パラリンピックが中国で予定されています。かつてオリンピックで活躍した「炎のランナー」という映画の主人公エリック・リデルという方がいました。
エリックは、中国の宣教師であった両親の元を離れ、当時の宣教師の子弟がそうであったように、五歳からロンドン近郊の学校で学びました。運動能力に優れていた彼は1924年パリ・オリンピックに百メートルの選手として出場することになります。しかし予選のレースが日曜日でした。敬虔なクリスチャンあったエリックは、このレースに出場することは、礼拝を欠席することになると悩みます。
そして日曜日は、神様への礼拝を優先したいとの思いから、百メートル走の予選レースを断念します。イギリス皇太子や政府関係者が「イギリスの栄誉のために走ってほしい」と願うなか、彼は神様の栄光を求めました。彼の思いを理解した友人の申し出によって、エリックは、代わりに4百メートル走に出場することになりました。そして一番外側のコースという不利な条件中、なんと当時世界新記録を出して優勝し、金メダルを獲得しました。
しか彼の神様への栄光の生涯は、それからでした。帰国後、22歳のエリックは、陸上選手としての栄光を捨て、両親が使命を持っていた中国へキリスト教の宣教師として向かったのです。その歩みは過酷でしたが、同じ使命を持つ女性と結婚し、三人の娘も与えられました。第二次世界大戦の戦火が激しくなるなか、彼は家族をカナダに帰し、一人危険な中国に留まります。中国の人々を見捨てることかできなかったのです。
その後、中国は日本軍の侵略を受け、外国人たちは、強制収容所に入れられますが、エリックは、収容所で皆に聖書を教えました。彼は、43歳で天国へ帰りましたが、過酷な収容所の中で、福音宣教の使命を受け継いだ少年スティーブン・メティカフが、その後、日本への宣教師として来日しました。彼は、38年間、日本で福音宣教、すなわち神様の愛とキリストにある救いを伝える働きを、北海道や青森、千葉などで続けました。信仰の炎のランナーのバトンは、受け継がれ日本に届けられました。
神様に愛されている皆さん、生涯の日々を、キリストにあって正しく数え、愛と死と永遠の命の解決がキリストにあるという信仰の炎を、自らが先ず味わいませんか。そして、ご聖霊なる神様の助けの中で、私たちも隣人や次の世代に受け継がせる歩みとなってゆきませんか。お祈り致します。
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