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2022.5.18ダニエル書2 章1~23 節「神様からの知恵と力」

牧師 松矢龍造


皆さんは、夜、夢を見ますか。妻は毎日夢を見るようですが、私はたまに見ます。すると起きた時、そこに出て来た人たちの為に祈るようにしています。先日、ある牧師の夢を見て、その人の為に祈り、そのことを伝えると、不思議にその牧師が病んでいて、教会も困難なところを通っていたと、後から聞かされました。そして祈って頂き感謝しますとメールが帰ってきました。

聖書66 巻が完成するまで、夢を通して、神様が啓示されることが、幾度となくありました。旧約時代のヤコブ、ヨセフ、パロの献酌官と調理官、パロ、ソロモン、ヨセフなどは、夢を通して神様から示しを受けました。しかし、聖書66 巻が完成してからは、夢による啓示が、聖書に加えられることはありません。そしてたとえ夢を見ても、聖書に照らして、真理であるか、確かめなければなりません。

古代バビロニヤ人ほど、魔術、口寄せ、星占い、その他の占いを重んじた民族は他にないと言われています。バビロニヤ人の科学は「体系化された迷信」でした。そして夢の解釈が重視されたのは、神々が夢によって、人間に、その心を伝えると信じられていたからです。

統治者にとって、自分の見た夢に、特別な意味があると信じることは、共通であったようです。

創世記20 章3~7 節「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。『あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。』アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、『主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、【あの人はわたしの兄です】と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです』と言った。

神は夢の中でアビメレクに言われた。『わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。』」

バビロンには、知り得ないことを知ろうとする人間の欲求を満足させることを職業とする、カルデイ人の呪法師、呪文師、呪術者が、かなりいたと思われます。夢は神々からのメッセージと考えられていたので、王が夢を見ると、占星術者たちは、その夢の解釈を求められました。バビロンの王ネブカドネツァルが即位してまもない二年とは、紀元前・BC604 年あるいは603 年のことです。

王は何度か夢を見て不安になり、眠れなくなりました。そこで、王は命令を出して、占い師、祈祷師、まじない師、賢者を呼び出し、自分の夢を説明させようとしました。3 節4 節「王は言った。『夢を見たのだが、その夢の意味を知りたくて心が落ち着かない。』賢者たちは王にアラム語で答えた。『王様がとこしえまでも生き永らえられますように。どうぞ僕らにその夢をお話しください。解釈を申し上げます。』」

賢者たちがアラム語で答えましたが、ダニエル書の7 章の終わりまで、アラム語で記されています。アラム語は、古代中近東における貿易と外交の共通語でした。5 節「王は賢者たちに答えた。『いいか、わたしの命令は絶対だ。もしお前たちがわたしの見た夢を言い当て、その解釈をしてくれなければ、お前たちの体を八つ裂きにし、お前たちの家も打ち壊す。』」

王が短気になっているのは、恐れのしるしであり、王が自分の見た夢におびえてパニックになっていることを示しています。しかし王は、見た夢自体をも明かしません。適当に解釈することを防ぐために、まず王の見た夢を言い当ててから、解釈するように言われました。賢者たちは、王が夢自体を明かさないので、対応のしようがありませんでした。バビロニヤの学問は、観察した事実と出来事に依存していましたから、夢自体を知らないでは、対処のしようがありませんでした。しかし創造主にしてご摂理の主なる神様は、このネブカドネツァル王の言葉によって、バビロンの神々の無力さを、明らかにされてゆきます。彼らの呪文も、彼らの神々に、その夢を示してくれるように説得することが出来ませんでした。もちろん、彼らの神々は、存在すらしていません。

王は激しく怒り、憤慨し、バビロンの知者たちを皆殺しにするように命令し、ダニエルと三人の同僚たちも、殺害の為に探し出されることになりました。探しに来たのは、侍従長アルヨクという人物です。彼の名は「月神の僕」という意味です。ダニエルは、思慮深く懸命に対応し、このアルヨクに尋ねました。「どうして王様は、このような厳しい命令を出されたのですか。」アルヨクは、事情を説明し、ダニエルは、王のもとに行って願いました。「しばらく、時をいただけますならば、解釈いたします。」

ダニエルは、家に帰り、仲間の三人の友に事情を説明し、他の賢者と共に殺されることのないように、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈りました。マタイによる福音書18 章19 節「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

ダニエル書で「天の神」と言われていますのは、神の普遍性と超越性を示しており、神を制限しようとするかのように見える地域的結び付きを排除するものです。また「秘密」と訳された言葉は、理性や伝統的な知恵によって突き止められないもので、ただ神様の啓示によってのみ突き止められることを表わしています。ダニエルと三友は、自分たちの限りある力では解決不可能な状況に直面します。しかし創造主なる神様は、私たちを通して、不可能を成し遂げる為に働くことを得意としておられます。私たちも、不合理な上司や人物に対処するための知恵を、神様から与えて頂けるように祈ることが重要です。

エレミヤ書33 章3 節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる。」そして新約聖書ヤコブの手紙1 章5 節「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」

ダニエルと三友は、すべての出来事を、創造主なる神様が支配しておられることを理解していました。悪い指導者たちが、際限のないような権力を持っていることを目にしていましたが、創造主なる神様が、王を退け、王を立てることを知っており、創造主なる神様は、その目的に従って世界を支配されるお方です。

私たちは、時に、悪い人間が繁栄していることに愕然とするかもしれません。しかし創造主なる神様は、常に支配しておられます。バビロンの王も、ヒットラーも、ロシアの指導者に対しても。この知識によって、私たちの世界において、何が起きようとも、私たちに確信と平和を与えてくれるようにしましょう。

神の御子イエス様は、嵐の中でも平安でした。私たちも、このイエス様に祈り、信頼しませんか。御言葉を通して、ご聖霊により、確信してゆきませんか。ダニエルは、秘密を明らかにすることは、神様の恵みによってのみ可能であることを認めていました。そして祈りますと、夜の幻によって、その秘密が明かされました。そしてダニエルは、天の神をたたえ祈りました。

20~23 節「神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立て、知者に知恵を、識者に知識を与えられる。奥義と秘義を現し、闇にひそむものを知り、光は御もとに宿る。

わたしの父祖の神よ、感謝と賛美をささげます。知恵と力をわたしに授け、今、願いをかなえ、王の望むことを知らせてくださいました。」

人の知恵でなく、神様の知恵によって掲示される意味を持ちます。私たちも、事柄の意味、意義、解釈を、祈り求めて行きませんか。旧約聖書の箴言では、真の知恵は、神様から与えられるとしています。箴言2 章6 節~8 節「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。」さらに知恵を実行する為に、律法が与えられています。箴言6章23 節「戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」

かつてエジプトに売られたヨセフも、エジプトの王パロの夢を解き明かして、エジプトの総理大臣とされました。そしてダニエルに対しても、夢とその解き明かしを授けました。危機はまさに機会とされます。神様の知恵は、闇を照らし、奥義を明らかにされます。詩編139 編11 節「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』」

私も以前に増して、どうしたらよいか分からない時、「御聖霊様、どうしたらよいでしょうか」と祈りますと、不思議に主が知恵を与えてくださいます。その際、祈ると共に、信じて祈ることが重要です。ヘブライの信徒への手紙11 章6 節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」

神様は、神様を求める祈りを起こさせるために、あえて苦難を許されることがあります。最後

にラ・ジュンソクという方の「霊的ダイエット、苦難」という内容を受け留めます。「苦難には、有益な面もあります。それは、自分の人生から『泡』が消えてなくなることです。苦難と直面すると、何かをいっぱいに膨らませて生きていた私たちの泡が消えてなくなるのです。

その中で、自分は大した存在ではないということが分かってきます。いや、分かるという程度ではなく、完全に認めるようなります。自分の弱さを認めることは簡単ではありません。詩編の作者は、主の掟を知らない高慢な人は、心が脂肪のように鈍感だと言っています。詩編119 編70節『彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。』

私たちの心が高慢と虚栄に満ち、神様の御心を知らず、自分の思い通りに生きているときに、苦難にあうと、そこから霊的なダイエットが始まります。見栄や高慢という泡が消えてなくなり、神様の御言葉を学ぶようになります。そして、心から神様の御心を求めるようになります。ですから、苦難は『試練に打ち勝つ忍耐強さ』を学ぶことのできる恵みの時なのです。授業料も高く、時間もかかりますが、神様はその苦難を通して、私たちの品性を変えていかれます。そして、新しい希望を与えてくださいます。もしあなたが苦難のただ中にいるなら、神様

に近づいてください。自分の罪によって受けている苦難であるなら、悔い改めてください。義の道を歩んでいて受けている苦難なら、耐え抜いてください。神様が苦難という訓練に招かれたのは、あなたとさらに親しくなるためです。神様に信頼し、その訓練をしっかりと通過してください。そうすれば、神様の関係が深まり、信仰はさらに成長するでしょう。」

主に愛されている皆さん、苦難の中で、主に知恵を祈り求め、最善を導いて下さる主に信頼してゆきませんか。

お祈り致します。

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