「ご聖霊の炎に満たされて」
牧師 松矢龍造
起
私たちの人間関係には、夫婦、親子、社会での関係があります。これら人生の全てにおいて、打ちひしがれ、これ以上進むことが出来ないと感じる時、創造主なる神様に拠り頼めば、力を新たに頂けます。
かつて旧約時代にモーセという人物がいて、肉の力で、同胞がエジプトで奴隷となっている状態から、解放しようとして、失敗しました。そして今で言う、燃え尽き症候群となって、ミデアンの荒野に逃亡しました。しかし40 年後、神様の時に、燃え尽きることのない、燃える柴と出会いました。それは御聖霊の炎の象徴でした。そして次の40 年間、燃え尽きることなく、荒れ野で、イスラエル民約240 万人を導く務めをなすことが出来ました。
承
あるいは預言者エリヤが、バアルの預言者450 人と対決して主にあって勝利しました。その後、肉を誇る中で、イスラエル王アハブの妻のイゼベルの脅しに屈し、燃え尽き症候群になって、シナイ山まで、逃亡しました。そこで、主から新たな力と使命を受けました。
列王記上19 章13~18 節「それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口
に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』
主はエリヤに言われた。『行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
転
今年のペテンコステ祈祷会で、御聖霊様、どの聖書箇所から、何を語ればよいでしょうか」と祈りました。すると導かれたのが、イザヤ書と、エフェソの信徒への手紙からの御言葉でした。
旧約時代の指導者や預言者も、燃え尽きしてしまうことがありました。若者も倦み疲れ、勇士もつまずき倒れることがあります。しかし主に拠り頼むなら、主は御聖霊の油注ぎと、ご聖霊の炎で満たして、使命や役割を果たす力をお与えになります。
預言者イザヤは、それは「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と導かれました。異次元の力であることを表しています。普通、誰も走ったら弱りますし、歩いたら疲れが出ます。しかし「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」というのは、異次元の力です。それは創造主なる神様こそ、永遠者であり、倦むことなく、疲れることなのない御方ですから、このお方から、新たな力を頂くから異次元の力なのです。さらに創造主なる神様は、全知全能の神であり、その英知は究めがたいのです。このお方が、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられます。
このイザヤ書の文脈では、創造主なる神様と、偶像の神々のことが対比されています。そして偶像の神々は、人間が作り、木や金属などで作られますが、その作っている人間が疲れることも含めて対比されています。本来存在していない偶像の神々に頼っても、新たな力を受けることは出来ません。またその偶像を作っている人間が疲れている。そんなものは、唯一の創造主なる神様に比べて、無力なのです。
唯一の創造主にして永遠の神様は、倦むことなく、疲れることもなく、その英知は究めがたいのです。この神様が、疲れた者に、新たな力を与えて下さいます。この「新たな」と訳された原文の言葉は「刷新する」「再び芽生える」「良いものに変える」「通り抜ける」という意味を持っています。創造主なる神様にて、救い主なる神様は、困難な様々な壁を乗り越えさせる・ブレイクスルーさせる力を与えてくださいます。
この創造主なる神様に信頼する者は、新しい力が与えられ、元気に満ち溢れます。最も強い人でさえ、時に疲れることがありますが、神様の力と強さは、決して弱まりません。神様は、私たちを助け、私たちの祈りを聞く為に、疲れすぎることも、忙し過ぎることも決してありません。神様の強さは、私たちの強さの源です。
私が最初の神学校を卒業して、最初の任地である東京の花小金井市にあります弥生台キリスト教会に赴任した時が25 歳でした。そして現在63 歳ですが、38 年間、燃え尽きることなく、牧師の働きを続けることが出来ているのは、ご聖霊の力、日々新たに与えて頂く力によってです。もちろん、ご聖霊なる神様が、妻や教会の皆様の協力も含まれます。
続いて、新約聖書のエフェソの信徒への手紙においても、ご聖霊に満たされることが記されています。ここで、「霊に満たされて」の前に「酒に酔いしれてはなりません」とあります。酒に酔うとは、古い生活と、その利己的な欲望を連想させます。また酒に酔うと、普段はしないのに、悪しきことが出てきます。それに対して、ご聖霊に満たされる時、普段では出来なかったことが、出来るように変えて頂けます。
前後の文脈を見ますと、4 章の後半に、古い生き方から、新しい生き方に変えられてゆくことが記されています。ご聖霊に満たされると、霊によって生きる者は、怒りに負けません。また悪い言葉を口にしません。そして人をそしらず、貪欲なことや、不道徳なことをしません。さらに深酒をしません。
加えて、後の文脈である5 章の後半から6 章の前半にかけて、ご聖霊に満たされると、夫婦関係、親子関係、社会での関係が、改善させて行きます。そして、直接のことは、19 節20 節において、三つの御霊の影響があることが分かります。その三つとは、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合うこと。また主に向かって心から讃美すること。そして主イエス・キリストの名によって、父である神様に感謝することです。
詩編と賛歌と霊的な歌とは、御言葉を通して信仰を頂き、御言葉と信仰告白に基づく讃美によって、互いに語り合い、分かち合うことです。また主に向かって心から讃美することは、創造主と救い主と、すべてのことを働かせて万事を益としてくださる主に対して、讃美を捧げることです。そして全てのことについて、主イエス様の恵みと愛を覚えて、父なる神様に感謝を捧げます。ご聖霊に満たされると、このような三つのことが、先ず起きてきます。
感謝のことで、「一生感謝365 日」という著書で知られるジョン・クゥアンという方の5月18 日に「感謝は不可能を可能にする」というタイトルで次のようにありました。「韓国北東部のカンウォンドで、養鶏場を運営している一人の中年女性がいた。ところがある晩、そこで大きな火災が発生し、すべてのものが焼けてしまった。
彼女は茫然自失の状態で、どうしたらよいのか分からなかった。しかし、すぐに気を取り直して、その廃墟の前に立ち、黙って考えていると、突然感謝の心が生まれてきた。その理由は、その場に夫がいないことであった。平素、夫は血の気の多い性格なので、もしこの場に居合わせていたら、養鶏所の火の中へ飛び込んでいき、夫を失っていたかもしれないと思ったのである。
しかし幸いなことに、その前の晩に夫は、ソウルに出張で、そこにはいなかった。彼女は、夫がその場から守られたことに感謝をし、悲しみの中でも、感謝の祈りをささげた。到底不可能だと思われる感謝の心が、彼女の上に臨んだのであった。夫人は何年か後、この尊い感謝の心を元手に、絶望を踏み台にして、再起に成功した。
このように、感謝は、不可能を可能にする。どんな困難も、感謝の前では、切れ味の鈍い刀となってしまう。感謝の力は、神秘で驚くべき祝福となって返ってくるのである。」
キリストにあって、御霊に満たされるなら、私たちは、憂鬱や退屈、緊張を癒す、より優れた喜びが与えられます。それはより崇高で、より長く続くものです。そして日々、この新たな力は、ご聖霊の導きに服従し、絶えずご聖霊の力に頼ることから来ます。それは自分が、ご聖霊をどれほど受け入れているかではなく、ご聖霊が、私たちを、どれほど受け入れておられるかに関心を持つべきであると言われています。
結
私たちは、泣きごとや、不平、不満を言う代わりに、神様の善意と憐れみと、ご聖霊に満たされることに、焦点を合わせるべきです。それは異次元の持続的な走りを可能とします。かつてエリヤは、裾をからげて、馬車で走るアハブの先を走って行く、異次元の走りが与えられました。列王記上18 章44~46 節「七度目に、従者は言った。『御覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます。』エリヤは言った。『アハブのところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさい。』
そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは車に乗ってイズレエルに向かった。主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。」
神様に愛されている皆さん、創造主なる神様を待ち望み、ご聖霊の導きに従う時、御聖霊に満たされ、異次元の新しい力が与えられます。それは燃え尽きることなく、夫婦や親子や社会的な関係において、良き実を結びます。酒に酔うことなく、ご聖霊の炎に満たされて、御言葉と讃美と感謝の中で、新たな力を日毎に頂いて、歩んでゆきませんか。
最後に、朝毎の主の恵みと、ご聖霊の助けを頂く大切さを受け留めて終わります。哀歌3 章23~25 節「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。」お祈り致します。
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