牧師 松矢龍造
起
人が力や権力を持つようになると、自己中心的な驕りが出てきやすいものです。そして自分の人生から、神様を押しのける思いが出てきます。ですから、人は、成功した時に、神様を忘れないように、常に注意が必要です。
多くの人々が、教会に通い、キリスト教徒として話をします。しかしその生活において、本当に神様を尊敬している歩みをしているかは、別な時があります。信仰告白も、必ずしも、信仰を所有していることを表すとは限らない場合があります。私たちの生活は、信仰告白に、ふさわしいものであろうかと吟味することが、誰にでも必要です。
もしある人が、厳しい試練に遭っている時、その人の誇り高ぶった意志を征服するために、今日の御言葉にありますバビロンの王ネブカドネツァルと同じように、罪の告白と、神様を認める告白をするように、導く為であるかもしれません。
承
今日の御言葉の冒頭で、バビロンの王ネブカドネツァルは、臣下への手紙の中で、自分が征服した小国家の神を、礼拝する決心しに至った、いきさつを説明するとしています。
時は、バビロンの王として、大建設計画が完成した時に起こりました。世俗的成功の頂点に達した、まさにその瞬間に、天からの審判の一撃が下されたのです。後の新約時代に、ヘロデ王が、神のように民衆から拝められたその瞬間に、虫に噛まれて死んだことを思い起こします。
神様は、全世界の全ての政治、ビジネス、宗教的支配者の、権力と権威を立て、また制限するお方です。人が自由の中に生き、高い自主性を持って生活している時、創造主なる神様が、絶対的な君主であられることを、理解し学ぶことは難しいです。私たちは、自分が何をして自由だと感じているかもしれませんが、神様が私たちの計画や望みの、全ての主権者であることを認めることが、本来人間の本分です。
転
4 章 1 節「わたしネブカドネツァルは、健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていた。」ネブカドネツァル王の時代、新バビロニア帝国では、芸術と文化に対する関心が新たにされ、多くの建築事業が行われました。戦争の脅威がなかったので、芸術や文化に対して、平和裡に労力と財力を投資出来ました。またネブカドネツァル王は、健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていたので、精神的な病があったわけでも、その記録もありません。
そんなある夜、恐ろしい夢を見て、頭の中に浮かんだ幻に悩まされました。そして命令を下して、バビロンの知者を全員招集して、夢の解釈をさせようとしました。ところが占い師、祈祷師、賢者、星占い師らは、誰ひとり夢を解釈することが出来ませんでした。最後にダニエルが来ました。
ダニエルという名前の意味は「神は裁き人」です。そしてバビロニア名で付けられた名は、「ベルテシャツァル」です。意味は「ベルが守る」です。当時のネブカドネツァルの神は、偶像神であり、バビロンの主神ベル・マルドゥクでした。
王は、ダニエルの神を、他の神々より優れた神と考えていました。しかしかつてネブカドネツァルは、エルサレム神殿から祭具を持ち去り、バビロンの主神であるベル・マルドゥクの神殿に納めていました。ですから、王は、ダニエルの神をほめたたえましたが、その神のみを完全に信じたのでも、その神にのみ従おうとしたのでもありませんでした。
王が見た夢は、大地の真ん中に、一本の木があり、実は豊かに実っていました。古代中近東の物語には、世界の中心に実り豊かな木が茂るというイメージが多用されていました。そして当時の世界の中心は、バビロニア帝国であり、世界の覇者は、一本の木であるネブカドネツァル王であると理解されます。
しかしこの木が、切り倒されますが、根株だけは残されます。ネブカドネツァルの権力は、一時的に奪われますが、残された根株が再び芽を出すように、王の権力も回復することになるという解釈です。人間の主権が、神様の主権を奪い取る限り、それは切り倒されます。しかし神様の計画の中では、役割がまだあるので、滅ぼし尽くされず、その根株は残されます。
ダニエルは、王にとって不都合な夢の解釈とその予測を、丁重に示唆しました。罪を悔いて施しをするなら、引き続き繁栄しますが、忠告を受け入れないなら、獣の心となり、人間社会から追放され、野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれ、七つの時を過ごすでしょう。
王は、この忠告を聞いても、一年の猶予期間を有効に用いませんでした。かえって宮殿の屋上から、自分が建てた建物の群れを眺めて、自分の権力と業績を誇りました。かつてバベルの塔を建てた人間の高ぶりに似ています。するとダニエルが夢を解き明かした通り、王は理性が失われて、獣のようにふるまうようになりました。獣の姿に近くなってゆきますが、むしろそれよりも衣服を棄て、野山を放浪したと思われます。
ある方は、この狂気は、人間が自分を動物であるかのように妄想する獣化妄想と呼ばれる病ではないかと言われていました。この罰は、王が悔い改め、創造主なる神様の権威を認めるまで続きました。それを七つの時と表現されています。七は完全数なので、神様の時が完全に満ちるまでという意味ではないでしょうか。
その七つの時が過ぎて、ネブカドネツァルは、目を上げて天を仰ぐと、理性が戻ってきました。31 節 32 節「わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうる者はだれもいない。」
当時、神様を表すために、神の座である「天」という言葉を用いました。そして罪とは、この天の神に背を向けて、神様の言葉に逆らうことです。この神様の御前に、罪を悔い改める時、正義と憐れみの行為を行うように求められました。貧しい人々に対する施しは、大切な教えの一つです。
ネブカドネツァルは、自分ではなく、創造主なる神様こそが、全地の支配者であると認めた時、獣から人間に戻され、祈りが答えられ、権力の座に戻ることが出来ました。
33 節 34 節「言い終わると、理性がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。」
病が癒された者の、第一になすべきことは、神様を讃美することです。そして神様の主権を認めるや否や、彼は王位に戻され、繁栄が再び与えられました。天の王という神様の呼称は、まれですが、「天の主」という呼称も用いられる時があります。ダニエルの神に対するネブカドネツァルの信仰告白は、以前より一歩進んでいます。
主の御前に驕る者は倒されます。「驕る者」と訳された原文の言葉は「思い上がる者」あるいは「高ぶり歩む者」「うぬぼれる者」「高ぶり歩む者」という意味でもあります。
ネブカドネツァルは、人の像の夢の解き明かしや、燃える炉での三友の守り、そして獣のような状態から回復することを体験してきました。しかし自分の生活の主となってくださいと、主なる神様をお招きしていません。人間は、本来、試練と奇跡に触れたなら、神様に自分の生活の主となってくださいと、お招きしなければならないです。
ところが、世の人々が、神を求めるのは、家内安全、商売繁盛を求め、次から次と偶像の神々を巡り歩きます。それは、真の神様を求める、本当の動機とはまったく違います。そして何度も悔い改める機会が与えられても、その機会を逃すなら、滅びが待っています。
ご聖霊の働きを拒み続けるなら、永遠の滅びでしかありません。イスカリオテのユダも、何度も悔い改めの機会が与えられたのにもかかわらず、悔い改めませんでした。
マルコによる福音書 3 章 28 節 29 節「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
結
創造主なる神様は、地上の王たちに権威を与えられます。それはイスラエルの神を礼拝しない王も、例外ではありません。そしてどの王も、神様の御前に高ぶるなら、神様の時に裁かれます。そしてその王が、もし裁かれる時、謙遜になれば、回復します。創造主なる神様は、民の上に立つ者の全ての上に、お立ちになるお方です。
そしてダニエルが、用いられたのは、知恵と夢の解き明かしだけでなく、自分の国を滅ぼしたネブカドネツァル王を、主にあって赦して仕えた故です。主が置かれた場所、立てられた場所で、主の御心に生かされ生きる時、人は神様に用いられてゆくのではないでしょうか。
誰でも、主の御前に、高ぶる心を、ご聖霊様から謙遜の賜物を頂いて、悔い改めることが出来ますように。だれでも高ぶる者は、神様の時に裁かれます。そして謙遜な者が、用いられます。ネブカドネツァルの姿は、後にキリスト者を迫害したローマ帝国のネロ、第二世界大戦の時のヒットラーや、大日本帝国の指導者、そして現在のロシアのプーチンを思い出させます。
先日、日本中会の教職者であった生島睦伸牧師の葬礼拝がありました。93 歳まで、土の器に、キリストの宝を入れて、宣教の業に、生涯を捧げた、主の器でした。この先生の生涯を覚えて、主の御名を崇めました。主の御前に、まさに謙遜にお仕えして、大きな主の御業に用いられた先生でした。高ぶる者は裁かれ、謙遜な者は、主の前に、真に栄えます。
最後に箴言 18 章 12 節を拝読して閉じます。「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。」お祈り致します。
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