牧師 松矢龍造
起 この世の王と王国は、栄枯盛衰をたどります。しかし神様の主権と神の国は、永遠です。歴史において、その時代を席巻するような帝国であっても、一時栄えたと思いきや、衰退して、次の王国になってゆきます。 旧約聖書の中においても、エジプトしかり、アッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、そして新約時代のローマ帝国しかりです。しかし神の国は永遠であり、神様の主権に終わりがありません。 創造主なる神様は、地上の王国の全ての終末と、御自分の永遠の王国とを比較して、聖書に描き記されています。そしてこれを記した聖書の言葉も永遠です。イザヤ書 40 章 7 節 8 節「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
承 ダニエル書は、1 章から 6 章まで、私たちと言う表現で記してきたことに対して、7 章から 12 章までの後半は、ダニエルが、一人称で預言の言葉を語っています。年代的には、1 章から 6 章までと重なるものが 7 章から 12 章に出てきます。 バビロンの王ベルシャツァルは、BC556 年から 539 年まで統治したナボニドス王の子どもあたります。このベルシャツァル王の治世の元年に、王ではなく、預言者ダニエル自身が、眠っている時に、頭に幻が浮かび、一つの夢を見たと始まります。 聖書が完結するまで、神様は、人々の夢を通して語られることがしばしばありました。ダニエルは、王の夢を解釈してきましたが、自分が見た幻や夢に対しては、大層恐れ、悩み、顔色も変わるほどであったとあります。 神の民の苦難や迫害を知ることは、悲しみとなることが、エレミヤの哀歌にも見られます。1 章 16 節「それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ、涙を流すがよい。慰め励ましてくれる者は、遠く去った。敵は勢いを増し、わたしの子らは荒廃に落ちてゆく。」
転 ダニエルが見た幻と夢は、四頭の獣の幻でした。第一のものは、獅子のようであったのですが、鷲の翼が生えていました。第二のものは、熊のようであり、横ざまに寝て、三本の肋骨を口にく わえていました。第三のものは、豹のようであり、背には翼が四つあり、頭も四つあり、権力が この獣に与えられました。第四の獣は、ものすごく恐ろしく、非常に強く、巨大な歯を持ち、食 らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじりました。加えて 10 本の角がありました。 これは四人の王と四つの帝国を表すと解釈されてきました。批評学的な見解では、第一の獣は、バビロン帝国を象徴し、第二の獣は、メディア王国、第三の獣は、ペルシア帝国、そして第四の 獣は、アレキサンドロス大王の王国ギリシアと解釈します。 しかし福音派的な解釈では、第一の獣は、バビロン帝国と同じですが、第二の獣は、メド・ペルシャとしています。そして第三の獣は、ギリシアであり、第四の獣は、ローマ帝国とその後の終わりの時としています。 いずれにせよ、預言者ダニエルは、四つの獣が、この世の王と王国の衰退の徴だと気づきますが、それでもこの幻は、彼を大いに苦しめました。 8 節の小さな角は、批評学的な見解では、パレスチナの覇権を BC175 年から 164 年まで握ったセレウコス朝の王アンティオコス 4 世のエピファネスとしています。そしてユダヤ人に、ギリシアの生活様式を受け入れるように厳しく要求したと言われています。 また別の解釈では、反キリスト的な勢力であるというものもあります。ヨハネの黙示録では、獣として次のような預言の言葉があります。13 章 5 節 6 節「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」 これらの四つの獣、すなわち地上の王と王国に対して、「日の老いたる者」や「人の子」が対比されています。「日の老いたる者」とは、永遠の神様を象徴しています。また「人の子」とは、アラム語では、人間あるいは、自分という意味です。人の子とは、地上の王国を表す獣と対比されており、人の子は、永遠の王国に就きます。 新約聖書では、主イエス様が、御自身のことを、自ら「人の子」と何度も言われました。神でありながら、人となられた人間性を示しておられます。また同時に、神の民を救う者であるメシアとしての役割を強調しています。この人の子は、天の雲に乗っておられました。天の雲は、人の子が、神であることを表しています。ヨハネの黙示録では、復活されて天に昇られたキリストが、世の終末の時に再臨される時、天の雲に乗ってこられると預言されています。 ヨハネの黙示録 1 章 7 節「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」 日の老いたる者が、王座に座られ、裁き主が席につき、巻物が繰り広げられました。この巻物は、人間各自の善行と悪行が記録されているものです。人の子は、日の老いたる者の前に来て言いました。14 節「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」 四つの王と王国の栄枯盛衰に対して、永遠の王国のことを知らされたダニエルでしたが、頭に浮かんだこの幻の故に悩まされました。第四の王国の時、一時期、二時期、半時期の間、反キリストの勢力が、いと高き方に敵対し、いと高き方の聖者らを悩まされると言われています。 原文では、一時期、二時期、半時期とは、一年、二年、半年とも訳せます。合計で三年半とい うことです。完全数 7 の半分にあたります。主なる神様によって、その反キリストが、神の民を苦しめる期間が制限されていることを示しています。しかしその間、神の民は悩まされるのです。ダニエルが大いに憂い、悩まされたことは、その故ではないでしょうか。 ヨハネの黙示録 11 章 2 節にもあります。「しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。」 この地上において、反キリストの勢力は、一時、創造主なる神様に敵対し、神の民を悩ませるでしょう。しかし神様の時に、反キリストの勢力は、裁かれ滅びます。新約聖書コリントの信徒への手紙一 15 章 24 節「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」
結
目に見える王国であっても、いつか衰退します。しかし目には見えませんが、神様の主権と神の国は永遠です。過ぎ行くものではなく、永遠の主と主権を、常に見続けることが、祈りと御言葉と、ご聖霊の助けの中で出来ますように。最後に、チョ・ジョンミンという方の「主の永遠の中にとどまるために」という内容を受け留めます。
「私は、霧の中を歩くのを楽しんでいた時期がありました。若い頃、ヘルマン・ヘッセの『霧の中』という詩を口ずさみながら、霧の立ち込める山の中を歩き回ったことを覚えています。霧が濃かったので、岩の間に座って、霧の消えていくのを、じっと眺めていました。
あっという間に消えていく霧も、しばらく生きて過ぎゆく人生も、大して違いがないように思いました。人間の始まりが、土であるという点を考えてみてください。人間は、土から造られて土に帰ります。神様は、エデンの園で罪を犯して堕落した人間に、『自分が神であるかのように生きるな』と、人間の本質を教えられました。
『あなたは、いつでも土に帰り得る存在だ。そのときまで、労苦して働きながら生きなければならない』というのです。ところが、人間は、このみことばにさえ、従おうとしませんでした。できることなら、汗を流さずに、苦痛を避けて生きようとします。
独裁者たちは、土に帰るのが嫌で、死体になっても永久保存されたいと願いました。しかし、 それは意味のないことです。神様は無から有を造られますが、人間は有から再び無に帰る存在で あることを知らなければなりません。そして、永遠なる神様を認めて、仕えなければなりません。
神様がプレゼントしてくださった時間の中で、神様を覚えましょう。その時間の前で謙遜になってください。私たちを、この地の短い時間の中に置かれた神様のみこころを受け入れ、聞き従うとき、永遠から永遠までおられる神様のうちに生きることができるのです。」
神様に愛されている皆さん、過行くものに心を捕らわれることなく、永遠から永遠におられる 神様のうちに生かされ、この神様に聴き従って行きませんか。永遠の神様は、過ぎ去る物の中で、永遠に確かであり、復活のイエス様にある永遠の命を、ご聖霊によって、私たちの内に入れてく ださる唯一のお方です。この主の御言葉に、生涯、聴き従って行きませんか。
お祈り致します。
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