ヘブライ人への手紙12 章4~13 節 ヨハネによる福音書19 章1~5 節
「人の一生は神様から賜る生涯教育と十字架に向かわれるキリスト」
起
私の父は89 歳で天に召されましたが、沢山の教訓と愛情を遺してくれました。その教えで最も覚えていることは、「死ぬまで勉強である」という言葉です。そして最も感謝している一つは、愛情と教えを受けて父を尊敬できることを通して、心から天の父なる神様に対して、「天の父」と信頼して呼びかけることが出来ることに繋がっているということです。
逆に、物理的な存在があっても、父なき社会は、神不在を引き起こすと言われます。父親と良い関係を持つか、持たないかは、神の存在や、父なる神との関係に大きな影響を及ぼすということです。多くの無神論者は、父親不在か、父親から虐待を受けています。
米国のハーバード大学、法学部の調査によりますと、青少年の非行の根本原因は、親不在にあるとのことです。「仮父業」という珍しい職業があるそうです。自分の子に対して、たとえば「そんなことで通用すると思っているのか」と一喝出来ない父親に対して、必要に応じて、家族の中で、精神的な父親の役を引き受ける職業だそうです。
承
しかしながら、人間であるどんな親も、父親も、完全な人は誰もいません。地上の父親は、子をしつけるのは、短期間であり、実に不完全なものです。これに対して、天の父なる神様は、完全なお方であり、生涯に渡って鍛錬し、そしてその動機は、怒りや憎しみで苦しめるのではなく、私たちの益のため、私たちを愛する故です。父なる神は、私たちを愛するがゆえに鍛えられます。もし鍛えられないなら、霊的な庶子であって、実の子ではありませんと聖書で言われています。鍛錬と苦難を許されるのは、神の愛の証拠です。
ヒエロニムスという古代の神学者が言います。「神の最大の怒りは、罪を犯す人に対する怒りをやめることである」と。すなわち神の最大の怒りは、その人に対して、もはや、教え、正し、目を開かせる見込みが、まったくないものと、みなしてしまわれることです。ですから、父なる神様は、愛ゆえに、私たちに対して、一生涯に渡って、生涯教育をなさいます。
今日の御言葉「また、子どもたちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』」
転
「あなたがたは、これを鍛錬として、忍耐しなさい」と言われています。「忍耐しなさい」と訳された原文の言葉は、「自分の場に固く踏みとどまりなさい」という意味です。迫害とプレッシャー、様々な試み、試練、病気、痛み、悲しみ、困難の中で、信仰の場に、固く踏みとどまりなさいということです。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と今日の御言葉の冒頭にありました。血を流すまでとは、もしくは殺されるまでということでもあります。殉教をも辞さないという信仰が、後退することに対して警告しています。
私たちの肉の思いや力では、二つに分かれます。一つは、軽く見て反省しないという弊害、そしてもう一つは、逆に重く見過ぎて、失望するという他の弊害です。
「血を流すまで抵抗したことがない」というのは、紀元前BC2 世紀に、マカベア時代の指導者が、部下の兵士に、決死の戦いを挑むように命じた時の言葉だという人もいます。しかし、ヘブライ人への手紙において「血を流すまで抵抗する」というのは、神の御子イエス様が、ゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたこと。また捕まえられて鞭うたれて背中から血が流され、さらに茨の冠を頭に被せられて、額から血が流れたこと。そして最後は、十字架上で釘打たれた手足から血が流れ、死後は、わき腹を槍で刺されて、死を証明するところの血と水が分離したものが流されたこと。このことを踏まえて語られているのです。
この神の御子が、血を流された姿を、見据えて、よく考えよと招かれています。そして初めは、この神の御子イエス様を見捨てて逃げた弟子たちは、後に使徒として、皆殉教しました。さらに執事であったステパノは、初代教会最初の殉教者として、迫害によって石打の刑に処せられました。しかし彼は神様から殉教の賜物を頂いて、天におられるイエス様が見えて、顔は天使のように輝いていたと聖書に記されています。これらが、血を流して抵抗したという中に、思いが込められています。
使徒にしても、ステパノにしても、先ず血を流されたキリストがおられる。この主イエス・キリストの十字架と復活によって、支えられてこそ、信仰の歩みが起こりえます。
苦しみには、大きく分けて三つの苦しみがあります。一つは、罪を犯した為の懲戒、二つ目は、善を行って苦しむ迫害による苦しみ、そして三つめは、神の本性である、御子のきよさに預からせるためです。ペトロの手紙二1 章4 節「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」鍛錬は、よい実を結ばせるための剪定であり、よりよきものを生むためのものです。また鍛錬は、鉱石が炉の中で不純物が取り除かれるような、純化の為です。
しかし鍛錬は、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われます。谷間がなければ、平地では咲かない花があります。ラルフ・コンルンという方が書かれたなかに、グエン物語があります。このグエンというのは粗暴で、わがままな娘のことで、この娘が、ある日のこと、恐ろしい怪我をして生涯の不具者になってしまいました。彼女は、不平不満の心でいっぱいでした。そんなある時、山間部に伝道してスカイパイロット・空の開拓者と呼ばれている宣教師の訪問を受けました。彼は不具者となって不平不満でいっぱいになっているグエンに渓谷の物語をしました。
「最初そこは渓谷ではなく、ただ広々とした平原であった。ある日、平原の主人が、大きな芝生を歩いていた。そこはただ雑草ばかりであった。主人は、平原に向かって『花はどこにあるのだ』と言った。平原は、『主よ、わたしには種がありません』と答えた。やがて主人は鳥に命じて、様々な花の種を持ってこさせた。彼らは、あちらこちらに、それを振りまいた。まもなく平原には、クロッカス、バラ、水牛豆、黄色のキンポウゲ、その他、野生のヒマワリ、夏中咲いている赤いユリなどの花が咲いた。やがて主人は、これを見て喜んだ。
ただ主人は、自分の一番好きな花がないので、平原に言った。『私の好きな仙人草、おだまき、スミレ、おきな草、しだ、その他花をつける灌木はどこにあるのか』と。
主人は鳥たちに、種をもって来て、これらを、あちらこちらにまいた。やがてまた主人が来たけれども、彼が何よりも愛好した花はなかった。そこで主人は『私の一番好きな花はないか』と尋ねたが、平原は悲しげに答えた。『ああ、ご主人様、わたしは花を保存することはできません。風が花を吹き飛ばし、太陽がわたしの胸を打ち砕くので、花は枯れて飛び去ります。』やがて主人は、電光に命じた。電光は、一撃で平原を心臓まで打ち割った。平原は、苦悩の中に揺れ動き、またうめいた。そして多くの日の間、黒いギザギザの割れた傷のために、ひどく泣き悲しんだ。しかし、川が割れ目から涙を注ぎだして、深い所にある肥沃な土を運び出した。そして、もう一度、鳥が種を運んで来て、これを渓谷にまき散らした。
その後に、多くの年月を経て、でこぼこした岩は、柔らかいこけや、はってゆく葡萄ずるで飾られ、いたる所に仙人草や、おだまきが生え、大きな、ニレの木が高く陽光の中に大きな枝をさしのべ、その下には低い西洋杉や、バムサムが群生し、至る所に、スミレや、おきな草や、くじゃく草が生えだして花が咲いた。このようにして、渓谷は、主人の愛好する休息と、平和と、歓喜の場所となったと。
やがて宣教師は、グエンに『霊の実、わたしは花と呼ぶは、愛、歓喜、平和、忍耐、柔和、この中にあるものは渓谷のみに育成するものである。』と読み上げた。『どれが渓谷の花ですか』とグエンが、もの柔らかに尋ねた。その時、空の案内者は、『柔和、おだやか、忍耐です。愛と歓喜、平和とは、広々とした所に咲くけれども、渓谷の中に咲く花のように、豊かな香りを放つわけにはいかないでしょう』と言った。
長い間グエンは、静かに臥していたが、彼女は静かにもの思いながら唇をふるわせて『わたしの渓谷には、一つも花が咲いておりません、ただゴツゴツした岩ばかりです』と答えた。
『やがて花が咲きますよ、愛するグエンよ、主は花を見出すであろう。わたしたちもそれを見ることが出来ます。』愛する者よ、あなたが、あなたの渓谷にくる時、これらのことを思い起こしなさい。」
神様に愛されている皆さん、私たちの霊的な渓谷においても、同じように語られているのではないでしょうか。私たちもまた霊的な渓谷を通して、私たちの思い、意図、思想、行為の各面で、神の御心に合致した正しい生活となってゆきます。そして、神の御前で正しい身分が与えられます。
結
鍛錬は、父なる神に服従することを学ばせるのに役に立ちます。自己憐憫、怒り、反逆、不平は、鍛錬の中で、出てきやすいものです。しかし主が取り扱われるなら、義という平和に満ちた実を結ばせてくださいます。
ルーマニアにいる牧師でレンブランドという方が、次のように言われています。「あるラビが、一人のユダヤ人にこう聞きました。『道で多額のお金が入った財布を拾ったとしたら、あなたならどうしますか。』その人はこう答えました。『私は子ども多く、貧しいので、神様が下さったプレゼントとして受け取ります。』するとラビはこう言いました。『あなたは泥棒だ。』またラビは同じ質問を二人目のユダヤ人に投じました。彼はこう言いました。『私はそのお金をすぐに持ち主に返します。』すると彼はこう答えました。『あなたは愚か者だ。』ラビは三人目のユダヤ人にも同じ質問をしました。彼はこう答えました。『お金を返すべきなのはよく分かっていますが、その状況で私がそれを返せるかどうかは確信できません。すべては主の恵みにかかっています。』ラビは彼をほめました。『あなたの答えは正しい。』
そしてこう付け加えました。『私たちは全き者でなければならないということと、そうなれないということを、どちらもよく知っています。ですから、生きている間、神様の恵みに頼るしかないのです。』」正しさを知り、しかし正しく歩めない自分の姿を思いつつ、主イエス様の恵みに絶えずより頼んで、霊的な渓谷を通して、義という平和に満ちた実を結べますように。
主イエス様は、正しさを知っていても、これを行うことが出来ない私たち罪人の身代わりとなられ、嘲られ、罵られ、鞭打たれ、殴られました。何の罪もないお方が、私たちの罪の身代わりとなられました。そして試練に苦しむ者たちに、ご自身の従順の姿を模範として残されました。この主から、霊的な目を離しては決してなりません。あなたも、キリストの受難の姿を、もう一度深く黙想して、祈り、その犠牲の愛に応えてゆきませんか。ご聖霊の助けを祈り求めながら。
お祈り致します。
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