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執筆者の写真CPC K

2022アドベント祈祷会_イザヤ書8章22節~9章6節「闇の中での大いなる光」

2022年11月30日、12月1日 アドベント祈祷会

イザヤ書8章22節~9章6節「闇の中での大いなる光」

牧師 松矢龍造



今から2800年前の闇の状況は、現在の闇と重なることが実に多いです。イザヤ書8章22節に

「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」とあります。コロナ禍による苦難、ロシアのウクライナ戦争による闇、香港における弾圧という暗黒、ミャンマーやアフガニスタンにおける苦悩、核をめぐる暗黒や、人種差別による追放など、現在も様々な闇の中を歩んでおります。

しかも、人間の肉の力では、苦悩の中にある人々には、逃れるすべがないと言えます。この2千年間において、科学の進歩は見られますが、人間の精神的な状況や、霊的な状況は、何も変わっておりません。むしろ科学が発達したことによって大量破壊兵器は増産され、北朝鮮は、何度もミサイルを発射し続けています。まさに、私たちの置かれている情況は、闇の中を歩むと言った表現に適合しています。


2800年前のイスラエルの状況は、ゼブルンの地、ナフタリの地は、辱めを受けたとあります。この二つの地名は、ともに北部のイスラエル部族のいた地域です。どちらも8世紀に、アッシリア帝国によって、侵攻を受けて、ガリラヤの属州とされました。そしてメギド州と呼ばされていました。そして異邦人が沢山、流入してきて、ガリラヤは、まさに暗黒の地でした。

アッシリアの脅威にさらされていた土地、異邦人のガリラヤは、征服された土地でした。その土地に住む者たちに希望を与える「大いなる光」とは、創造主なる神様による救済であり、その救いのしるしは、新しい王の誕生と即位で示されると預言されました。

大いなる光と訳された原文の言葉は、「偉大な光」「際立った光」とも訳せますが、大いなる光、偉大な光、際立った光とは、神様ご自身のことです。

「死の影」とは、暗黒のことですが、イスラエルの輝かしい時代のダビデやソロモンといった、王朝は没落して、希望が失われていたかに見えます。しかし創造主なる神様は、永遠の昔からの計画をもって、メシアをダビデの末から起こされます。イザヤ書9章6節「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」

創造主なる神様は、絶えずダビデ王の家系から、イスラエルの王が出ると約束されました。そして生まれた時や即位の折に、神の子と呼ばれます。詩編2編7節「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」


救い主が誕生する為に用いられたのは、ダビデ王の末なるマリアであり、養父として用いられたヨセフも、ダビデの末でした。そして二人とも、ガリラヤのナザレ出身です。マリアが受胎告知を受けた場所も、ヨセフが夢で、御聖霊によってマリアの胎に宿ったと示された地も、ガリラヤでした。暗黒の地に、光の御子・救い主の誕生の光が与えられたのです。

イザヤ書9章2節「あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。」

暗黒の中では、「深い喜び」は、望むべくもありません。「深い喜び」とは、民を大きくし、大きな楽しみを得ることです。神の民が増えて、罪から解放されることが、大きな喜びと楽しみとなります。現在も、信仰を告白して、洗礼を受けられる人が起こると、まさしく深い喜びと、大きな楽しみといえるものがあります。今年もクリスマスに受洗者が予定されています。

9章3節「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。」ミディアンの日のようにとは、ギデオンという士師が、イズレエル平野で、ミディアン人を打ち負かした日のことです。現在でいえば、罪と死、悪魔と虚無に打ち勝つ日と言えます。

4節「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服は、ことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」兵士の靴も、軍服も、火に投げ込まれて焼き尽くされるとは、戦いの終わりを象徴しています。私たちは、世の終末と、キリストの来臨における新天新地を待ち望んでいます。その場所には、絶対平和があります。それはイザヤ書11章6~9節にあります状況です。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

イザヤ書9章5節「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

誕生するメシア・救い主は、四つの名として唱えられます。第一に、「驚くべき指導者」です。「驚くべき」と訳された言葉は、原文では「不思議なこと」という意味でもあります。また「指導者」と訳された言葉は、原文では「助言する」という意味でもあります。それで「驚くべき指導者」を「不思議な助言者」「素晴らしいカウンセラー」と訳する聖書もあります。傷ついた者を癒す、不思議な救い主でもあります。

驚くべき指導者ということでは、永遠の神の国を治める指導者・リーダーだということです。地上の国は、どんなに栄えても、やがて失われてゆきます。北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国も、南ユダを滅ぼしたバビロン帝国も、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国も、滅んで行きました。

さらにその後のギリシアも、またこれを滅ぼしたローマも、さらにイスラエルを奴隷としていたエジプトも、今は敗北して、小さな国の一つとなっています。

けれど神の国は、さらに大きくなり、永遠に続き、滅ぼされることも、なくなることもありません。神の御子であり救い主なるイエス様は、神の国を、永遠に治められます。

第二に、力ある神です。人間なら、いつか死にます。また力にも限りがあります。しかし神の御子イエス様は、天と地を造られ、全宇宙と私達人間を造られた、力ある神様です。万物は御子において造られました。新約聖書コロサイの信徒への手紙1章16節「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」

第三に、永遠の父と呼ばれています。赤ん坊が生まれた時に、その子は、乳児、子どもと呼ばれても、父親とは言われないでしょう。しかしイエス様は、生まれた時から、永遠の父と呼ばれます。それは永遠に、人類を、思いやる、親のような存在だということです。

皆さんの中で、もう父親がいません。あるいは母親がいませんと言われる方も、おられるでしょう。しかしイエス様は、「永遠の父」として、どんな時にも、共にいてくださり、永遠に、親のように、深く憐れんでくださり、大切にしてくださいます。

第四に、平和の君と唱えられます。平和とは、四つの平和があります。神様との平和、自分自身との平和、人との平和、そして自然界との平和です。神様との平和がなければ、私たちの魂は、地獄で滅んでしまいます。また自分自身との平和がなければ、私たちは自分が嫌いで、生きて行けません。さらに、人との平和がなければ、争い戦争となり、悲惨な状況となります。そして自然との平和がなければ、災害や飢えで死んでゆきます。

神の御子であり救い主なるイエス様は、この四つの平和を私たちに与える為に、この地上に来られました。この平和を与える為に、イエス様御自身が、私たちの抱える罪と死と悪魔に打ち勝つために、御自身を捧げられ、十字架で身代わりの死を遂げ、そして復活されました。

この神の御子にして救い主なるイエス様によって、神様との平和、自分自身との平和、人との平和、造られた世界との平和が与えられます。


大いなる光は、神様による救いであり、その救いは、救い主なるイエス様の誕生によります。このイエス様を信じて、心の中に迎え入れるなら、どんな人にも、救いと平和が与えらます。しかし闇の本質は、私たち一人一人の内側にある原罪と罪です。この罪の克服なくして、光の歩みはできません。

最後に、キム・ヒョンイクという方の「毎日、神様の前に出るべき理由」を受け留めます。「2、3歳の子どもが集まった所で、『ぼくの、私の』という言葉を一番よく耳にします。だれかが、持ってきた物も『ぼくの、私の』、友達が遊んでいる途中で、ちょっと置いただけでも、『ぼくの、私の』、自分が先に見つけたなら『ぼくの、私の』もので、それが壊れてしまったときだけ、『きみの』ものなのです。

私たちは、罪を犯したアダムの子孫であり、自己中心という霊的、罪の遺伝子を持って生まれてきました。ですから、幼少期から、自ずと自己中心的な幸せを求めるのです。クリスチャンになった後でも、残っているこの罪の性質は、しつこく、再形成されては、よみがえり、私たちを苦しめます。昨日の勝利は、明日の勝利を保証してはくれません。それで、私たちには、祈りと御言葉のある礼拝が必要なのです。

神様は、記された御言葉である聖書を通して、御自分の民に語ってくださいます。私たちが聞きたいことを語られるのではなく、私たちが必ず聞くべきことを語られるのです。神様の御言葉が、御聖霊の力の中で宣言されるとき、その御言葉は、私たちのうちにある神様のかたちに似た本性を呼び起こし、繰り返し、よみがえってくる罪の性質との戦いを起こします。

そして、ついには、その罪の性質を殺してくれるのです。私たちが、毎日、祈りと御言葉によって、神様の御前に出るべき理由は、今日の戦いを勝ち抜くための力が、毎日必要だからです。」

神様に愛されている皆さん、日々、神様の御前に出て、大いなる光なるお方から、御言葉を頂き、祈りつつ、ご聖霊の力に預かって、罪との戦いに、勝利してゆきませんか。そしてこの大いなる光を、御聖霊によって、証してゆきませんか。

イザヤ書9章5節「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」お祈り致します。




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