起 皆さんは、友人がいますか。その友人と言われる人たちとは、どんな関係でしょうか。今日の御言葉の中に「友」に関する二つの御言葉があります。一つは、18 節です。「意志の弱い者は手を打って誓い、その友のために証人となる。」これは借金の保証人となることに対する警告です。ここでの「友」とは、自分の為に利用される人として出てきます。「手を打つ」とは、保証や誓う時の動作を言っています。 利用されてしまう友の、連帯保証人となれば、大変なことになってしまう時があります。友人という借主が返せなければ、連帯保証人が支払わなければなりません。額が大きいほど、財産を失うだけでなく、貸主の奴隷とされることもあります。このような友なら、意志の弱い者は、利用されるだけです。 承 一方もう一つの「友」に関する聖句は、17 節です。「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」この友の場合は、真の親友と言えます。苦しみを分け合ってこそ、本当の兄弟のような存在です。 調子のよい時、順境にある時にだけ、近寄って来る友人は、真の友人とは言えません。貧窮している時も、困苦に身を置く時にも、力になってくれる友人こそ、真の友人です。 旧約聖書の中で、イスラエル初代の王サウルの息子ヨナタンの政敵ダビデへの愛は、その良い実例です。政治的な利害が相反する中でも、無私の心で、ダビデのために尽くしたことは、最も高貴な友情の姿です。 サムエル記上 18 章 1 節「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」20 章 41 節「従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。」 逆境の日にも、友となって支えてくれる。弱さを覚えている時に、助けてくれる。悲しむ時 に、慰めてくれる。重荷を負っている時は、共に背負ってくれる。そんな、主イエス様にある、友人関係を互いに築きたいものです。 転 しかしそんな真の友人は、私にはいませんという方も、おられるのではないでしょうか。大丈夫です。主イエス様こそ、主イエスさまを信じる人なら、誰でも真の友人となって下さいます。ヨハネによる福音書 15 章 13 節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」主イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださいました。まさに真の友です。 この真の友となって下さっている主イエス様に対して、私たちは、その命じることを良く聴き、これに従うことは、友人としての、ふさわしい応答です。ヨハネによる福音書 15 章 14 節 15 節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 続いて、取り返しの聞かない関係にならない為に、初動が大切であると言われている聖句です。14 節「いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。」 堤防の隙間から、水が漏れだすと、やがて堤防が決壊します。水が漏れていることを、早く認めて、手当をしなければなりません。同じように、人間関係の争いにおいても、最初はささいな争いが、ほっておくと、どんどん大きくなり、ひどい時には、戦争にまで発展しかねません。夫婦、親子、隣人、会社、国家間など、個人と集団に対して、古今東西を問わずに適応できる内容です。 争いの代表的なものは、自分の領域の拡大が、洪水のような争いに発展しやすいです。争いを治める秘訣は、互いに、平和の精神を持ち、平和の性質を身に着け、平和に向けて努力することです。それには、根本的には、キリストの愛と平和と恵みを、心の中に頂くことです。 こんな例がありました。ある教会に出入りしていた、男性のことです。みんなから、小さい時から、ばかにされていた男性でした。その人が大人となり、漁師の手伝いに雇われて、漁に出掛けました。すると船は、大しけに遭い、全速力で、港に帰ってきました。ところが、その男性一人が見つかりません。よく捜してみましたら、何と船底で、その男性は死んでいました。そして、腕一本全部を、船底に開いた穴に、突っ込んで、海水が船に侵入することを、防いでいたのです。 他の乗組員は、この男性の犠牲によって、命が助かったのです。同じように、キリスト・イエス様は、神の裁きの波を、十字架によって、防いでくださる神様の愛の腕となられました。その愛によって、争いは、小さいうちから、取り除くことが肝心です。 続いて、人間関係において、高慢な口のききかたをする者は、争いや破れとなってゆきます。 19 節「罪を愛する者は争いを愛する。戸口を高く開く者は破れを招く。」戸を高く開くとは、高慢な口のききかたをする描写でしょう。また 20 節では、欺きの言葉を口にする者も、災難へとつながることを言っています。「心の曲がった者は幸いを受けない。舌をもって欺く者は災難に陥る。」 言葉は、冷静に、慎重になることが必要です。27 節 28 節「口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある。無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる。」 語る時に、慎重に言葉を選ぶ大切さが、箴言の主題の一つです。それは言葉と行いにおける、自制心とも言えます。人は、自信がなくなると、言葉数が多くなってきます。沈黙は、金と言われます。「制する」と訳された原文の言葉は、「少なくする」「抑える」「抑制する」という意味でもあります。 黙っていることの価値は、少なくても三つあると言われます。一つは、言う価値のあることがない場合は、最善の手段です。二つ目に、聴いて学ぶ機会となります。三つ目に、賢い者たちと、共通点を持たせてくれます。 話す時は、重要なことを言えるように、相手の言葉を良く聴き、考えて聴く為に、一時休止の時を持つことが大切になります。ヤコブの手紙 1 章 19 節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」そして、相手に、喜びをもたらす言葉を語りたいものです。22 節「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」心の持ちようが、健康に影響を与えます。霊は、判断、感情、意思の源とされます。心や霊が、喜び、感謝、讃美で満ち溢れているなら、魂だけでなく、体の病気が癒されていることにも繋がります。
そして平和と喜びの源は、キリストの福音です。キリスト・イエス様の愛と恵みによる、喜びのおとずれこそ、私たちの魂と霊の養いと癒しの源です。
キリストの知恵は、お金ではかえません。その人の心が、求めて、受け入れなければ、キリストの知恵と救いは、その人のものとなりません。16 節「愚か者が代金を手にしているのは何のためか。知恵を買おうにも、心がないではないか。」結
スポルジョンという方が、こう言われます。「友情、その美しさを、誰もがたたえる。しかし、世の友情は、散り行く枯れ葉、消えゆく水泡、花に群れる蜂も、花が終われば、寄り付かないのに似て、夢のようだ。」
本当の友情は、第一に、無条件の愛です。人にきらわれ相手にされない時も、落ちぶれて助けの必要な時も、死の床にうめく時も変わりません。第二に、実際的な愛です。口だけの愛ではなく、時間をかけて、与えられるものは、与えくします。第三に、純粋な愛です。いつまでも、忍耐し、最善なものを与える賢い愛です。期待し、信頼を持ち続けます。
コリントの信徒への手紙一 13 章 7 節「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
どこに、そのような真実な愛と、友情があるのでしょうか。キリストこそ、真の友、あなた兄弟、あなたの救い主、あなたの永遠の喜びです。ヨハネの手紙一 3 章 16 節「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
イエス様の命の代価を経た愛と友情に、絶えず、ご聖霊によって触れ続け、私たちも、隣人への愛と友情を分かつものとなってゆきませんか。最後に、ヨハネの手紙一 4 章 10~12 節を拝読して閉じます。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」お祈り致します。
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