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2023.5.28 ペンテコステ礼拝 マルコによる福音書 6 章 1~13 節

「神様の恵みと賜物・カリス的信仰」

牧師 松矢龍造

ご聖霊の降臨祭であるペンテコステ礼拝を感謝し、主の御名を讃美致します。希望が丘教会は、カンバーランド長老キリスト教会の群れに属しています。18 世紀のことです。アメリカのテネシー州の近くにありますカンバーランド地方において、著しいご聖霊の御業が興りました。

そして多くの人たちが、キリストを信じて、多くの教会が、カンバーランド地方に誕生して行きました。さらにその地方にいた、ならず者と言われる素行が悪い人の生活まで変えられてゆくという奇跡まで起こりました。

一度に多くのクリスチャンと教会が誕生しますと、そこに牧師を立てなければなりません。当時、イギリスからアメリカに宣教師たちが来て誕生した長老教会では、一定の間、イギリスの神学大学に留学しないと、牧師の資格が与えられませんでした。けれど、ご聖霊による著しい御業が興り、多くの信者と教会が誕生しますと、牧師を養成することは、それでは間に合いません。

そこで、アメリカの本国だけで、牧師を養成する為には、アメリカ長老教会から分かれなければなりませんでした。

三人の牧師たちが、テネシー州にあります丸太小屋で、徹夜の祈りをして、カンバーランド長老キリスト教会が誕生しました。いわば、私たちの属するカンバーランド長老教会は、御聖霊の著しい奇跡の御業によって誕生した群れです。

イエス様の宣教は、神様の霊であるご聖霊が、著しく働き、その権威と力が発動するものでした。そしてこれを受け継いだ、弟子たちによる宣教も、御聖霊の降臨が必要でした。イエス様が 30 歳になられた時、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた際に、ご聖霊が、著しく、イエス様に下りました。

マルコによる福音書 1 章 9~11 節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

イエス様の働きは、まさに御聖霊に満たされて、力と愛、奇跡と癒しによる宣教となりました。

神様の恵みは、ギリシア語では、カリスという言葉です。そして神様の恵み・カリスから派生した、神様の賜物は、カリスマという言葉です。現代では、よく「カリスマ的何々」と言って、飛び抜けて優れた能力や魅力を持つ人は、「カリスマ」と呼ぶ場合が多いです。

しかし聖書においては、神様からの恵みのことを、カリス。あるいは、神様からの賜物のことを、カリスマと言います。主イエス様の宣教と弟子たちの宣教においても、神様の霊である、ご聖霊が働かれ、その権威と力と奇跡が、恵みによって働いてなされました。まさに神様の恵みと賜物、カリスとカリスマによる宣教でした。

今日の御言葉であるマルコによる福音書 6 章は、前の 5 章に、会堂長の一人でヤイロという名の人の娘が、死人の中から起き上がった奇跡が記されています。また途中 12 年間、

どんな医者でも直せなかった、出血が止まらない女性を、イエス様が奇跡的に癒されたことが記されています。

これを受けての 6 章 1 節です。「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」イエス様の誕生は、ユダヤのベツレヘムでしたが、その後育ったのは、ガリラヤ湖の近くのナザレという場所でした。それはマリアとヨハネの故郷でもありました。

2 節「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。』」

ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までです。そして安息日には、会堂において、聖書の朗読と祈りによる礼拝が行われました。この会堂は、安息日以外は、地域の学校や裁判所としての役目を果たしていました。

3節4節「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」

ナザレで育ったイエス様が、メシア・救い主として活動を始められると、故郷の人々や家族は、偏見と妬みの中で、イエス様を敬いませんでした。自分たちの知る限りの表面的な、こだわりを、故郷の人々や家族が、取り続けました。

私たちも、主イエス様を信じて、神様の恵み・カリスによって、救いを頂き、神様の子、神様の民、キリスト者とされても、小さいころから自分を知る故郷の人や家族から、すぐには尊敬されません。しかし私たちは、たとえ尊敬を受けなくても、神様の役に立つ働きを、神様の賜物・カリスマによって、果たすことが出来ます。たとえ友人や家族から、信仰持つことで、尊敬を受けなくても、神様に仕えることを、止めてはなりません。

5 節 6 節前半「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」

イエス様は、故郷では、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、その他は、何も奇跡を行うことが出来ませんでした。問題は、主イエス様の能力ではなく、周りの人々の

不信仰的な雰囲気の中では、働きが制限されてしまうということです。

福音書の中では、主イエス様を感嘆させた素晴らしい信仰が、異邦人の中からも見られます。しかし一番近い、郷里の人々には、驚嘆するほどの不信仰が見出されます。

同じように、神様の恵みや賜物・すなわちカリスやカリスマは、神様の主権による御業ですが、人間の信仰と祈り、従順と一致が用いられます。逆に、信仰と祈り、従順と一致がない所では、著しく御業が制限されてしまうということです。ですから、御聖霊の御業を考える時、秩序とカリスマの両方を踏まえる必要があります。

6節後半と 7 節「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、」。

イエス様は、神様の賜物である、汚れた霊に対する権能、すなわちカリスマを、12 弟子たちに授け、遣わしました。その際に、二人ずつ組みにして遣わされました。二人で行くメリットは、一つに、互いに励まし合うことが出来ます。二つ目に、福音が拒絶された時、慰め合えます。三つ目に、判断がより的確になり、間違いが生じにくくなります。四つ目に、怠惰や無関心を戒め合うことができます。五つ目に、互いに祈り、祈られ、祈り合うことが必要でもあります。

私たちの強さは、神様から来ますが、神様は私たちが一致して協力し合ったり、チームワークや違った賜物を合わせたりして、私たちの必要を満たしてくださいます。ですから、主キリストに仕える際に、一人で行おうとしてなりません。

8節 9 節「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』」と命じられた。」

これは持ち物よりも、神様の守りと備えを信頼して、すぐに宣教の働きに、出発せよということです。もちろん必要なものがあり、それは直接、間接的に、主が備えてくださいます。私の 40 年の牧会の中で、必要なものは、全て主が備えてくださったと、証しすることが出来ます。

10 節 11 節「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。』」

福音を聞いた人たちは、どうこたえるのか、責任があることを、イエス様は、ここで、はっきりと言われています。足の裏の埃を払う動作は、弟子たちが、忠実に注意深くメッセージを伝える限り、たとえその証が拒絶されても責任がないということです。

隣人がキリストの救いの証を拒絶しても、私たちに責任はありませんが、キリストの福音を、分かりやすく、また、祈りと共に、その人と信頼関係になり、ふさわしい時に伝える責任はあります。 12 節 13 節「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」

悔い改めて救を受けたり、悪霊が追い出され、癒しがなされたりする為には、神様の恵み・カリスと神様の賜物・カリスマによります。救いは、神様からの恩恵であり、恩寵であり、信仰によって与えられる無償で無尽蔵、無代価です。特に資格や行い、人間的な限界を超えて、キリストを信じる全ての人に及ぶものです。

また神様の賜物は、キリストを信じた者たちに、神様の働きをする為に委ねられるカリスマです。無償の賜物、恵みの賜物、特殊能力です。恩寵の力、天賦の霊的な賜物です。

宣教には、この神様からの恵み・カリスと、神様からの賜物・カリスマが、必要不可欠です。天的な知恵、癒しの賜物、力ある業、異言、預言、そして愛の賜物などが、宣教や愛の業の為に必要です。

主キリストは、弟子たちに、権威と支配力を、お委ねになりました。有名な社会学者でありキリスト者でもあるマックス・ウェーバーは、この支配という社会概念を、次の三つに型に区別しています。一つは、法の支配。二つ目に、伝統的な支配。そして三つ目に、神様からの賜物・カリスマ的支配。

近代社会は、おもに法律による支配関係が規定されています。封建的な時代には、伝統的な因習制度が、重大な力を持ちました。しかし神様からの賜物・カリスマ的権威を持つ偉人が出現する時に、それまでの法的な支配や、伝統的な支配といったものが、ひっくり返してしまうと言われています。

マタイによる福音書 7 章 28 節 29 節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」御聖霊に満たされた人・主キリストの出現は、永いユダヤの因習を覆す力となりました。イエス様の宣教も、弟子たちの宣教も、私たちの教会の宣教も、神様からの恵み・カリスと、神様からの賜物・カリスマが必要です。

民の惰眠を覚醒し、人々の惰性的な生き方を打破する、ご聖霊の恵みと賜物、カリスとカリスマが、私たちと教会に、さらに満ち溢れますように。ご聖霊の導きに従い、主の御心である自分の十字架を負って、神様に従う人に、ご聖霊の満たしがあります。肉なるものが、ご聖霊に圧倒されて、神様に従う歩みとなってゆきませんか。お祈り致します。


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