牧師 松矢龍造
起
私たちが語る言葉によって、どんな実が結ばれているでしょうか。私たちが発する言葉によって、良き実を結ぶ時もあれば、悪しき実を結ぶ時もあり、言葉によって実の結び方が違ってきます。そして人の語る言葉は、心の中から出てきます。心に何が満ちているかで、その人の言葉となって出てきます。ですから、良き言葉を語り、良き実を結びたければ、先ず心の中を、良き言葉で満たす必要があります。福音とは、喜びのおとずれという意味ですが、心にキリストの福音が満ちていること、旧約的に言えば、心に神様の良き知恵の言葉が満ちていることが、必要不可欠です。今日も、箴言の御言葉を通して、神様からの良き知恵を、心の中に満たしてゆくことが、真理の御霊様によって出来ますように。
承
言葉と言った時、先ずついてまわるのが、真実な言葉を語るのか、それとも嘘を言うのかが問われます。人は、何故、嘘を言うのでしょうか。少なくても三つの理由があると言われます。一つ目の理由は、自分をよりよく見せようとする見栄の為に嘘をつく場合があります。二つ目に、自分にとって都合が悪い時、自分を守ろうとして嘘をつく場合があります。そして三つ目に、自分の罪や悪がばれて、恥をかかない為に嘘をつく場合があります。さらに嘘の特徴には、少なくても三つあります。一つは、一つ嘘を言うと、第二、第三の嘘で塗り固めなければならなくなります。二つ目に、いつかは、必ずばれます。三つ目に、一番多い嘘は、半分本当で、半分が嘘であるという嘘です。それで嘘をつく自分の心まで、言い訳をします。半分は本当なのだからと。しかしそれは嘘であることに変わりはありません。偽札は、半分本物であっても、偽札であるのに変わりがないようにです。
転
それでは、今日の御言葉において、言葉が結ぶ実について展開されている五つの要素を受け留めて行きます。第一に、怒りの言葉についてです。16 節「無知な者は怒って、たちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している。」
知恵ある人は、怒りを静め制御しますが、愚かな者は、怒りをあらわにして、愚行に至ります。このことは、箴言の主題の一つとして重要なものとなっています。言葉を制御できる人は、人生を制御できると言っても過言ではないでしょう。言葉を制御できない場合は、舌が小さな火となって、人生の車輪を焼き尽くしていきます。
新約聖書ヤコブの手紙 3 章 2~6 節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。
同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」
怒りの言葉は、相手を傷つけ、人間関係を壊し、取り返しのつかないダメージを相手にもたらします。また自分の魂を汚し、自分自身を、ばか者にし、惨めにします。そして神様の聖なる御名を汚しかねません。気がついた時には、友情も、信頼感も、平安な心など、大切なものが壊れて行きます。
もちろん義憤はよいものですが、日を超えて怒り続けるなら、義憤も悪魔に隙を与えて、悪しき心になりかねません。エフェソの信徒へ手紙 4 章 26 節 27 節「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに関しては、自制が必要であり、「すぐ言葉に現わす」ことに注意が常に必要です。
主キリストはどうでしたでしょうか。ご自身には罪がまったくないのに、十字架につけられた場面で、どうだったでしょうか。怒りをあらわにしたでしょうか。むしろ十字架上のイエス様は、柔和さの極みの姿でした。
ペトロの手紙一 2 章 22 節 23 節「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」
そしてむしろ柔和な者こそ、地を継ぐと言われました。マタイによる福音書 5 章 5 節「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
続いて、第二に、慎重に言葉を発するように言われています。18 節「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。」愛と配慮がない軽率な言葉は、両刃の剣のように、人を傷つけます。むしろ、人の傷ついた心を、慰め、励まし、癒すような言葉を持って、人に接する人は幸いです。
その為には、キリストが、信仰によって、私の心の中に住んでくださって、心の中に、キリストに愛されている、ぬくもりがわき上がることが必要です。そして平和を図り、人の悪を思わず、復讐心や妬み、うらやむ心から、ご聖霊によってきよめられることが大切になります。
加えて、自分中心ではなく、他の人の幸せを心から求めます。その為に祈り、人と一緒に泣き、共に喜びます。そして心の中に、親切な計画を立てる、愛の心を願い求めます。
第三に、嘘ではなく、真実を語ります。19 節「真実を語る唇はいつまでも確かなもの。うそをつく舌は一瞬。」しかしただ単に、真実を語るのではありません。ボンヘッファー師の著書に記された例が思い出されます。ある生徒の父親は、飲んだくれでした。そのことを、教室の皆が聞いている場面で、その生徒に、教師が「あなたの父親は、飲んだくれだ」言いました。すると、その生徒は「いいえ、違います」と思わず応えました。
この場合、表面的には、教師は真実を言い、生徒は嘘をつきました。しかし教室で皆が聞いている中で、教師がその生徒に「あなたの父親は、のんだくれだ」と言って、その生徒を、皆の聞いている前で、愛なく侮辱して辱めることが、真実で良いことなのでしょうか。
ですから、真実を語るということは、単純ではありません。愛を持って真理を語っているか。その人の為に、祈ったか。そしてその人を侮辱せず辱めることなく、成長と改善を心から願っての言葉だっただろうか。しかし自己保身のつく嘘は、頂けません。
いずれにせよ、自分自身は、どうだろうとかと問われます。神様の御心であることのみを語り、御心でないことは語らない。それが真実を語る唇ということではないでしょうか。
第四に、思慮深い人は、自分の誇る言葉を口にしません。23 節「思慮深い人は知識を隠す。愚かな心はその無知を言いふらす。」語る時に慎重に言葉を選びます。そのことの大切さは、箴言の主題のもう一つです。思慮深く、知恵ある人は、必要以上に語ることなく、慌ててしゃべることもなく、ましてや、神様の栄光でなく、自分を誇る言葉に関しては慎みます。
使徒パウロは、誇るなら自分の弱さを誇り、神様のみを誇ると言っています。コリントの信徒への手紙二 12 章 9 節「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」加えて同じコリントの信徒への手紙二 10 章 17 節「誇る者は主を誇れ。」
続いて第五に、親切な言葉は、人を喜ばせます。25 節「心配は人をうなだれさせる。親切な言葉は人を喜ばせる。」ここで「心配」と訳されている言葉は、原文では「おびえ」「恐れ」「不安」「思い煩い」という意味でもあります。私たちの周りには、心配したり、おびえていたり、恐れていたり、不安であったり、思い煩ったりしている人々が、必ずいるのではないでしょうか。
ウクライナ人々は、侵略されて日々、不安の中にいます。経済的に困窮していて、心配している人がいます。地震が各地に起きていて、おびえている人がいます。他にも、明日を思い煩っている人もいます。これらの人々に、親切な言葉を語ることは、神の民にふさわしいことです。
「親切」と訳された言葉は、「うれしくなる」「より良くなる」「楽しい」「好ましい」「良い」という意味でもあります。隣人が、今以上に好ましい状態になれるように、感情や重いを受け留めたり、共感したり、慰めたり、励ましたりすることは、まさに求められていることです。親切な言葉は、悩みを受け入れ、沈んでいる心を支えます。また人を喜ばすことなど、カウンセリングの秘訣を教えてくれるような御言です。
結
このように良い心と言葉になる為に、必要なことは何でしょうか。 第一に、神様は真実なお方なので、この真実である神様の言葉が、あなたの心を導くなら、信頼できる言葉を語る者とされます。
第二に、心の内側に神様の愛と希望があり、神様からの赦されて満ち足りた心になっている時に、親切な言葉が溢れてきます。
第三に、災害は、正しい人にも訪れますが、正しい人たちは、困難な中にあっても、好機を見出し、前に進むことが出来ます。神様の正しさに生かされて、正しく生きる人の言葉は、人を前向きにする言葉を語ってゆきます。
第四に、人の忠告を聞くことが出来る人は、成長します。けれど、他の人の忠告を聞き入れることは、地位や立場が高くなると、なかなか大変なことです。それで、痛いことを言われると、怒ったり、黙り込んだり、挫折感に沈みこんだり、忠告してくれた人を離れてしまったりすることも起こりがちです。加えて、人は自分が正しいと思い込みやすいものです。
ですから、神様の御前に、いつも出て、祈り、御言葉と共に、神様が自分を見てくださる通りに、自分自身を受け入れる人こそ、人の忠告を受け入れる人ではないでしょうか。ですから、神様の御言葉である聖書に、常に自分を照らして、神様を知ると同時に、自分自身を知る時、人の忠告を受け入れつつ、柔軟で、賢い平和を作り出す生き方をしてゆくのではないでしょうか。
第五に、心と口が一つとなれるように、ご聖霊なる神様に、祈り、助けと力と愛を頂くことです。また互いに祈り合うことです。
第六に、全ての言葉は、裁きの日に、責任を問われることを忘れてはなりません。マタイによる福音書 12 章 36 節 27 節「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
最後に、第七として、良い知らせである福音の言葉、神様からの良い言葉に、御聖霊に祈りつつ、日々、常に聴き続け、心を満たし続けることです。そして口の言葉によって、良い実を結んで行きませんか。お祈りいたします。
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