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2023.6.18ヨハネによる福音書 21 章 1~14 節『復活された主イエス様による再召命』

牧師 松矢龍造

ジャカルタ研修ツアーの為に、お祈り頂き感謝致します。無事戻ってまいりました。研修した内容は、後日、少しずつ分かち合いたいと願っています。改めて、主にお仕えるとは、どういうことか、思い巡らす時ともなりました。

さて、毎年の受難週において、主イエス様との地上での最後の晩餐を、深く覚える時を持っています。その為に、祈りと御言葉に加えて、最後の晩餐・記念聖餐式を行っています。けれど忘れがちなのは、復活されたイエス様が、弟子たちと、地上で最後の朝食の時を、ご一緒にされたことです。

復活された主イエス様は、女性の弟子たちを通して、男性の 11 人の弟子たちに、ガリラヤでお会いすると伝えたことが、他の福音書に記されています。マルコによる福音書 16 章 7 節「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

イスラエルに研修に行かせて頂いた時に、最後の晩餐が行われた場所で研修したことに加え て、ガリラヤ湖畔で、弟子たちを召し出された場所にも行きました。その場所は、弟子たちを再召命される場所ともなった所です。

ヨハネによる福音書 21 章 1 節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」

ティベリアス湖畔とありますが、ガリラヤ湖の別名です。他にも琴の形に似ているので、キネレテ湖、あるいはゲネサレト湖とも呼ばれます。ここであえて「ティベリアス湖畔」とありますが、当時イスラエルを植民地下として統治していたローマ皇帝、ティベリウスにちなんで、「ティベリアス湖畔」と呼んでいます。

そのような抑圧されていた状況の中で、復活されたイエス様は、弟子たちに現れてくださったことを示しているのではないでしょうか。私たちにも、課題や問題の中で、圧力やプレッシャーがかかっている状況において、復活されたイエス様は、御聖霊によって現れてくださるお方で す。

このティベリアス湖畔には、現在、ペトロ首位権教会が建てられています。その教会の中に入りますと、ペトロがイエス様から召命を受けたとされる場所の岩がありました。また外には、ペトロを再度召されるイエス様の銅像がペトロの跪いた銅像と共に置かれていました。私をも主イエス様は、弟子として、牧師として召し出してくださっていることを意識する時となったことを覚えています。

2節「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。」

このティベリアス湖畔には、イスカリオテのユダを除く 11 名の弟子のうち、7 名の弟子たちがいたことが記されています。イエス様のことを三度否んで逃げたシモン・ペトロ。また最後まで復活された主のことを疑ったディディモと呼ばれたトマス。そして主イエス様は、ガリラヤのカナで、最初の奇跡が行われましたが、そこの出身であるナタナエル。彼は、最初は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とイエス様に対して否定的な人でした。「ナタナエル」という意味は、「神様は与える」という意味ですが、イエス様を神の子、イスラエルの王として認めること が、神様から与えられた人物です。

加えてゼベダイの子たち、彼らは「雷の子ら」・ボアネルゲスと呼ばれ、気性が激しく、愛に乏しい兄弟たちでした。その一人は、この福音書の著者として用いられたヨハネです。さらに他に二人の弟子が一緒にいました。

3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

シモン・ペトロは、かつてガリラヤ湖で、漁師をしていました。それで日常の糧を得る為に、漁に行ったのではないでしょうか。他の弟子たちも、一緒に行きました。彼らは、人間をとる漁師となる為に、すなわち悪魔の支配から、神様の支配に人々を移す働きをする為に、漁師を止めて、イエス様についてゆきました。それがまた元に戻ろうとしているのです。

私たちも、うまくいかない時、転換期を迎えているにもかかわらず、今までと同じ方法を続けていないでしょうか。ペトロたちは、復活のイエス様にあって、新しい生き方をすべく転換期にあったのに、昔ながらの方法で行いました。その結果、何の良い結果が得られなかったのです。

これは、祈りなしに始め、神様の助けなしで行う、人間の努力の空しさを示しています。特 に、人々の魂を救いに導くという点に関しては、特にそうです。この姿は、かつてルカによる福音書の場面を思い出せます。

ルカによる福音書 5 章 1~11 節「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」

イエス様は、ガリラヤ湖畔で、弟子たちを召し出された、同じ状況を通して、それを思い出 せ、再召命をされようとしておられたのではないでしょうか。そしてイエス様に従う時、神様のことも、御言葉も、よく分かるようになり、そして最終的には、一番良い結果となることを、再び学び直す必要がありました。

4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」

岸辺に立っておられたお方が、復活されたイエス様だと分からなかったのは、朝方で暗かったということもありますが、まさか復活されたイエス様が、岸辺に立っているとは、思いもよらなかったのでしょう。そしてイエス様だと分かる為には別のことが必要でした。

5節「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。」

イエス様を見捨てて逃げた弟子たちに対して「子たちよ」と呼び掛けられたのは、イエス様の愛と同情の呼びかけです。そして弟子たちに対して、人間の小さな知恵、力量、経験等に依り頼むことなく、ひたすら、神様の恵みと力に信頼すべきことを示す為の、実物教育を再度なされることの表われです。

かくまで、辛抱強く、根気強く、弟子たちを薫陶し、訓練されるイエス様のご慈愛を覚えます。そしてそのご慈愛は、私たちに一人ひとりに対しても、抱いておられます。

箴言 3 章 5~7 節「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。」

続いて 6 節「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

この大漁は、イエス様による奇跡であり、弟子たちの世界宣教の成功を象徴しています。人間の肉の力や知恵では出来ませんが、主イエス様の言われる通りにする時に、主は奇跡の業を、私たちに対しても、して下るお方ではないでしょうか。世界宣教は、イエス様の霊である御聖霊の働きによります。ジャカルタ研修ツアーの中で、イスラム教が国教のようなインドネシアにおいて、万単位の人々が、キリスト者となっているのは、まさに御聖霊による奇跡であると、まのあたりにしてきました。

7節「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」

ペトロは、イエス様のことを三度否んだことによって、自分自身が恥ずかしかったのです。アダムとエバが、神様の御前に、罪を犯した時、裸であることが恥ずかしいことだと、初めて意識しました。罪の意識と、裸の意識が、同一視されて語られています。ペトロも同じ思いがあったでしょう。加えて、ペトロは、そんなイエス様が、なお「子たちよ」と言われた言葉に、無尽蔵の愛を感じて、誰よりも、早くイエス様の方に行きたいと、岸辺おられるイエス様のもとに、泳いで向かったのではないでしょうか。

8節「ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。」一ペキスは、約 45 ㎝ですから、二百ペキスとは、約 90 メートルの距離です。大漁の魚と共に、他の 6 人の弟子たちも、岸辺におられるイエス様の方に向かいました。

9 節 10 節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」

炭火とありますのは、ペトロにとっては、大祭司の庭で、主イエス様を三度否んだ時に、あたっていた火のことを思い出します。それでも、ペトロの存在をあるがままで、そのままで、受け入れて下さっている主の愛の深さを覚えたかもしれません。

またパンと魚ということであれば、男性だけで、5千人の人たちを、五つのパンと二匹の魚で満たされた恵みを思い起こされます。そして最後の晩餐をも、思い起こさせたでしょう。

加えて、旧約時代に、預言者エリヤは、偶像礼拝をなしていた王妃イゼベルを恐れて、逃げて来た時がありました。その時、主は、パンをもってエリヤを養われ、再召命をされました。その場面を、新約聖書であるヨハネの福音書では、思い起こさせているとも考えられます。

11 節「シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」

153 匹という数字を、あたえて記しているのは、大漁であったということだけでなく、153 という数字に意味があると、いくつかの説がなされてきました。アウグスティヌスという神学者の説は、1~17 までの数字を足すと 153 となり、17は十戒と7つの御聖霊の賜物を象徴していると言います。またヒエロニムスは、当時の魚類の種類が 153 種類であったことから、この後、宣教によって獲得される人々が、あらゆる種類の人間に及ぶことを象徴しているというものです。

さらに将来キリストのもとに集められる異邦人が満ちることが 100 という数字、集められるイスラエルの残りの民が 50 という数字、そして残りの3は、三位一体の神様を象徴して、全ては神

様の栄光の為になされるというものです。他にも当時世界で使われていた言語が 153 種類であったという説もあります。福音が伝えられる世界の人種や民族と数を象徴しているという説もあります。しかしこれらよりも、「網が破れなかった」ということが重要と見られています。網は「全世界の教会」を象徴しており、あらゆる人々が、入る部屋が備えてあります。世界の教会には、いかなる民族的な排他性もなく、肌の色による差別も、精鋭主義もありません。

12~14 節「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

復活されたイエス様は、永遠の霊の体であると同時に、物理的に、パンと魚を与えることが出来る体でした。この確かに復活されたイエス様は、私たちに命じられます。マタイによる福音書28 章 18~20 節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

復活の主イエス様の大宣命令・大弟子化命令に、私たちも、神様からの召しを受けて、御聖霊の力に預かって、応答して行きませんか。お祈りいたします。



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