牧師 松矢龍造
起
主イエス様の最初の弟子であるペトロは、幾多の浮き沈みがある人でした。しかし 12 弟子や教会を代表して、「鍵の権能」を委ねられた人となりました。「鍵の権能」とは、主イエス様を宣教する権限と、主イエス様を信じた人に、「あなたの罪は赦された」と宣言する権威のことです。
私たちも、時に浮き沈みがあり、また教会も完全を目指しますが、欠けや弱さを持った者たち の集まりです。けれど、主イエス様は、ご自身を信じる者が、なお不完全な人であっても聖徒と呼ばれます。また、欠けがある人たちの集まりである教会を、神の教会と呼んでくださいます。それは、主イエス様の十字架と復活、そしてご聖霊が、内側に住んでいて下さるからです。さらに内なる、ご聖霊は、成長や成熟に向かって、養い育ててくださいます。
承
イスラエルに研修に行かせて頂いた時、ガリラヤ湖畔にありますペトロ首位権教会を訪れました。その場所は、ペトロたち漁師が主の弟子として召し出された場所であり、またペトロに、再召命がなされた場所と呼ばれています。
その教会のすぐそばに、主イエス様がペトロに手を伸ばされ、ペトロは跪いて再召命を受けている銅像が置かれています。すなわち「わたしの羊を飼いなさい」と言われた場面です。私も 18 歳の時に、牧師になる為の召命を受けたのに、最初は自分の肉の力に依り頼み、ご聖霊に頼らず、その召命から逃げてしまいました。
そして再び召命を確認して、神学校に入学して卒業して牧師となりましたから、まさにそのペトロの姿は、私の姿であると思いました。そして、こんな弱い者を、なお牧師として用い続けてくださっている、主イエス様の恵みと召命を感謝したことを、その場所で覚えました。 けれど献身とは、なにも直接献身して牧師になることだけが、献身ではありません。私たちは献金を捧げる際に、主イエス様に感謝する思いと共に、献身の思いを持って捧げています。現在も、主イエス様を信じる主の弟子たちは、それぞれの召しによって、様々な職業や奉仕に、主から愛された愛に応えて、主イエス様への愛から、これに仕えています。
転
それでは、15 節からもう一度。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」
ガリラヤ湖畔で、復活された主イエス様と弟子たちは、パンと魚とで朝食を食べました。その後、他の弟子たちがいましたが、ペトロに対しては名指しで問われました。それは、主イエス様を、大祭司の庭で、三度、主を否んだペトロに対して、特別に三度、問いかけるものでした。
この問いは、ペトロを責める為でなく、三度否んだペトロに対して、三度重ねて、その存在そのものを、なお愛しておられること。そして人をとる漁師、すなわち使徒としての使命は変わっていないことを強調される為であったでしょう。加えて自信を失っていたペトロには、そのことが特に必要だと、主イエス様は思われたのではないでしょうか。
ペトロの名前を形容しているシモン。それは生まれながらの弱いシモンを意味しているでしょう。しかし主イエス様によって岩のようなペトロに変えて頂けることの表われです。ペトロは、この再召命の後、34 年の間、生きて宣教を続けたと言われています。
伝説によりますと、ペトロの最後の場面は、ローマでしばらく迫害によって投獄された後、逃れて市外に出て去ろうとしました。その途中のことです。たちまちイエス様に出会い、驚いて「主よ、どこに行かれるのですか」と問いますと、「今一度、十字架にかかるためにローマへ」と答えられました。これを聞いたペトロは、悔恨にたえず、すなわちローマに引き返して、最後まで迫害を忍びました。
そして十字架にかけられようとする時、自ら求めて、主イエス様と同じでは申し訳ないと、逆さ十字架を望み、逆さ十字架にかけられ、殉教したと言われています。
主イエス様は、「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と言われました。これは、他の弟子たちを愛するよりも、主イエス様を愛するか。また、ここにいる他の弟子がイエス様を愛する以上に、主イエス様を愛するか。そして、漁師をする以上に、主イエス様を愛するかと、いくつかの意味合いが考えられます。
私たちにとっては、自分自身以上に、家族以上に、自分の職業以上に、自分の計画以上に、主イエス様を愛するかという問いとなることでしょう。
ここで主イエス様が「わたしを愛するか」と言われた原文はアガペーの愛で愛するかと問われています。しかしペトロが「わたしがあなたを愛していることは」との答えには、フィレオーの愛で愛するとなっていす。アガペーの愛とは、無条件の愛、相手のいかんにかかわらず、その存在を愛し続けているという愛です。
これに対して、フィレオーの愛は、愛を受けなければ、愛せない愛のことです。ペトロは、自分自身の肉の力では、たとえ皆の者がイエス様を見捨てても、私は見捨てないと言ったのに、三度主を否んでしまったことを経験していました。それで、アガペーの愛は、自分自身にはないことを、よくよく悟っていました。
ですから、主からの愛を受けなければ、主を愛せない者であることは、「あなたがご存じです」と答えたのではないでしょうか。するとイエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。ある面では、最初の召命は「人をとる漁師にする」との召命は、福音伝道が中心と言えます。そして「わたしの羊を飼いなさい」とは、牧会的配慮をもって養うことと言えます。
続いて 16 節「二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。
この二度目の問いは、読み手であります私たち一人ひとりに対してのように響いてきます。ペトロへの問いは、「読者である、あなたはどうなのか」。自分の肉の力で、主イエス様を、どんな時にも愛し、どんな羊をも世話し続けることが出来るのか。
「はい、主よ、わたしが、あなたから愛を受けなければ、愛せません。また、あなたの羊を、主から愛と力を頂かなければ、愛して世話をし続けることは出せきません。あなたはそのことをよくご存じです」と応える者であるかと、問われるのではないでしょうか。
17 節「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。
『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』
イエス様は、三度目はアガペーの愛でわたしを愛するかと言われず、フィレオーの愛で私を愛するかと、ペトロの言葉に下げてくださいました。ペトロの心に、慢心の心がないことが確認されたからでしょう。
方や三度、問われたことで、ペトロの方は、三度主を否んだこととの関連があきらかなこと で、悲しくなりました。けれど、ペトロのことを、何もかもご存じの上で、なお弱く愚かで醜 い、こんな者を、なおこの存在をあるがままで、そのままで愛してくださるイエス様。こんなだめな者に、なお「わたしの羊を飼いなさい」と言われるイエス様の恵みと、ご恩寵の素晴らしさです。このことに驚きと感動を持って、この再召命を受け留めたのではないでしょうか。
ベルナルドという神学者が、この「わたしの羊を飼いなさい」という内容を次のように言っていました。「あなたの精神をもって、彼らを養え。あなたの言語をもって彼らを養え。あなたの勤労をもって彼らを養え。あなたの心からの祈りと、訓戒の言葉と、また善良な模範とをもって、彼らを養え。」
18 節「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
「両手を伸ばす」とは、ペトロも、イエス様同様、十字架で死ぬことを意味しています。またペトロの自由は奪われ、望まぬ場所に連れて行かれます。たとえそのようになっても、イエス様の十字架による死が、父なる神様の栄光をもたらしたように、ペトロの殉教も、神様への栄光をもたらすものとなることを、主はペトロに言われました。
私たちも、自分の十字架を負って、すなわち神様の御心に従って苦しみを受けることを通して、神様が栄光をお受けになります。
19 節「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」
ここで「従いなさい」と訳された言葉は、「ついてきなさい」「同行しなさい」「仲間でいなさい」という意味でもあります。ですからイエス様から決して離れてはならない。イエス様の仲間まであり続けなさい。イエス様に最後まで、聴き従いなさいということです。
先日、ジャカルタ・プレイズ・コミュニティ教会で、主日礼拝での説教で、「ここまで教会が導かれたのは、ご聖霊の導きに従ったからです。ですから、ご聖霊に従いましょう」それが、全てです。そう結論づけられた言葉を思いだします。
結
ペトロには、幾多の浮き沈みがありました。けれど彼は、ついに身をもってキリストの教会の堅固ないしずえの一つとなりました。彼は無学な凡人でしたが、神様によく用いられ、天国の鍵の保管者であるに、ふさわしい者と、主イエス様によって、変えて頂きました。
そして主キリストから愛され、主キリストへの愛以外に、主に仕える動機として、ふさわしいものはありません。また迫害の中で、打ち勝てるのは、主キリストに愛され、主キリストへの熱い愛からです。
加えて、主イエス様を信じて従う羊の群れを養う為に、必要な優しさと思いやりを与えることが出来るのも、主キリストに愛され、キリストを熱く愛することから来ます。
むしろキリストへの愛のない奉仕は、空しく、空虚です。キリストは、良い羊飼いであり、良い羊飼いであるイエス様は、私たち一人ひとりの為に命を捨てられました。この愛に、ご聖霊によって応えます。
私たちの為にも、十字架にかかり、復活されたイエス様、またご聖霊の力と再生。そして幾多の浮き沈みまで、万事益とされる、父なる神様のご摂理によって、私も何度でも、立ち直らせてくださいました。そしてあなたをも、何度も立ち直らせて下さる、同じ三位一体の神様です。このお方に、あなたも、主なる神様から力と愛を頂いて「従って行きませんか。」お祈り致します。
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