牧師 松矢龍造
起
ある子山羊は、一匹で野に放しておくと、ツツジを食べで下痢をしてしまうといいます。ところが、親山羊と共に野に放つと、ツツジを食べで下痢をしてしまうことがないというのです。それは、親山羊が、これは食べてはダメだと退けさせ、また食べてよい草花に導くからであるようです。同じように、親や律法は、私たちに祝福と呪い、命と死がなんであるかを、霊的な子どもたちに対して、教え導きます。
今日の御言葉である冒頭の13節です。「言葉を侮る者は滅ぼされ、戒めを敬う者は報われる。」ここで「侮る」と訳された言葉は、原文では「さげすむ」「軽蔑する」という意味でもあります。親や神様の言葉を、侮り、さげすみ、軽蔑するなら、滅びを招きます。
そして、対句には、「戒め」とあります。これは親の訓戒を指しますが、親が受けている戒めは、主の律法です。その精神は、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛することです。そこに祝福と命があります。またこれをないがしろにするなら、呪いと死となります。
承
けれど、誰も、律法自体は分かっても、主イエス様の恵みと、ご聖霊の力を頂かなければ、誰も戒めである律法を守り続けることは出来ません。
加えて、現代は、不確実な時代とか、不確定な時代と言われます。真実な戒めが遠ざけられています。しかしいくら遠ざけても、ただ一つ確かなことがあります。それは、私も、あなたも、やがて肉体の死を迎えることと、死後に最後の審判が定められているということです。
ヘブライ人への手紙9章27節「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」ですから、誰でも、神の御子なるイエス・キリストが、道であり、命であり、真理と言われていますから、このお方のもとに来て学ぶことです。
先ほどのヘブライ人への手紙の続きである9章28節ではこうあります。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」
転
今日の御言葉にも、いつくかの格言が散りばめられています。今日は、特に、子に対する親の戒め、また人に対する神様からの戒めに関して、特に取り扱うことが導かれています。
24節「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。」子を愛する親にとって、子を懲らしめることは、容易ではありません。けれど原罪を持って生まれてきている子どもには、懲らしめは必須です。創造主なる神様が、両親に与えた最も大きな責任は、子どもを養い導くことです。
もし、しつけをしない親ならば、子ども対して、真の愛があるか疑わしいことになります。なぜなら、もし子どもを、しつけないなら、子どもの性格上の発達に関して、配慮することが、欠如していることを意味しているからです。
子どもを懲らしめることは、長期的な災難を回避することに繋がります。子どもが親の見ていないところでも、確かに戒めを守るなら、多くの災難を回避できることに繋がります。矯正なしでは、子どもは、善と悪の明確な理解が乏しくなり、人生の方向性もない状態で育つことになってしまいます。
ですから、あなたは、子どもを懲らしめることを恐れてはなりません。家庭で子どもを委ねられていない人であっても、教会において、子どもたちを懲らしめる。それは愛の行為の一つです。もちろん懲らしめる前提は、愛情と配慮、あらかじめの教えと、子どもの心を聴くことや、一緒に遊ぶことが前提です。
しかし親の努力だけで、子どもに知恵と戒めを与えても、身に着けさせることは、できない面もあることを忘れてはなりません。熱心な諭しと懲罰を受けた子が、必ずしも、知恵ある者となるわけではないとも言われています。種を植え、水を注いでも、成長させてくださるのは、神様だからです。親の努力は、神様の知恵や戒めを、何よりも、子どもが求めるように、子どもを励ますことしか出来ないことを覚えておく必要があります。
子どもに対する鞭や諭を与えることは、先ほど将来への備えであると言いましたが、将来、他の人を害する行為に走らないように、また神様を恐れ敬う人になるようにと、しつけ、戒めます。そして親や長老に従うことは、社会の秩序を保つために重要なことです。律法によれば、親に不従順で反抗し続ける子は、町の長老たちによって死刑に処するべきとされています。
申命記21章18~21節「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、『わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです』と言いなさい。
町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。」とても厳しいですが、社会での犯罪や、神様ヘの冒涜を防ぐ措置であり、また抑止の言葉でもありました。
子に対して、最も効果のある親のあり方は、子どもを私物化せず、主から委ねられた子どもであることをわきまえている必要があります。また親のエゴイズムや見栄や都合なしに、真実の愛を心の底に持つことが大切になります。そして神様から委ねられた子どもを、心から尊び、疎かにしない愛は、結局、神様から来ます。
ですから、親が、神様抜きで、子どもを育てることは、実に困難になってしまうということです。主と共に、子どもを養い育てることが必要不可欠です。新約聖書エフェソの信徒への手紙6章1~4節「子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。
『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
続いて、大人と戒めに関してです。14節「賢人の教えは命の源。死の罠を避けさせる。」乾燥した中近東では、生き物に不可欠な水が湧き出る泉は貴重でした。ですから「命の源」とは泉とたとえられます。肉体には、物理的な水が必要なように、人生と魂には、知恵に基づく教えと戒めが、泉のように必要です。
17節「神に逆らう使者は災いに遭い、忠実な使いは癒す。」悪い使者は、誤った情報や戒めを伝えます。また聞く者に対する敬意を払わずに伝えて、問題を起こします。逆に良い使者は、優しい言葉と、忍耐によって、人々の悪い感情を沈め、人々に耳を傾けさせます。
21節「災難は罪人を追う。神に従う人には良い報いがある。」愚かな者や、悪人は、罰せられ、神様の教えと戒めに従う善良で知恵ある人には、健康と富が与えられます。生き方に、ふさわしい報いを受けるという考えは、応報思想と言われます。これは、地上においては、一部が真理です。22節も同じ思想があります。「善人は孫の代にまで嗣業を残す。罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」
応報思想では、罪人が富を蓄えるという現実の説明は困難な面があります。その富が、いつかは善人の手に渡ると説明されます。しかしもう一つは、地上でたとえ善人が報われないことがあっても、天上では、宝を天に積んでおり、天での報いがあるなら、説明がつきます。
結
最後に、20節を取り扱います。「知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。」人生と戒めと言った時、それは、どんな人と共に歩むかで、大きな違いとなってゆきます。使徒パウロも、良き友と共に歩むことの大切さを説いています。
テモテへの手紙二2章22節「若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」子どもは、誰が友であるかに大きな影響を受けます。そして大人も同じです。清い心で主を呼び求め、正義と信仰と愛と平和を求める人々と共に歩むことが大切です。
そして最も大切なことは、主イエス様と共に歩むことです。旧約聖書ミカ書6章8節「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」
そして新約聖書マタイによる福音書28章20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
神様に愛されている皆さん、神様の戒めを通して、自分の不完全さを自覚して悔い改める人、心の貧しい人となり、へりくだってイエス様と共に歩みませんか。そして十字架と復活の主にあって、ご聖霊の実を結んで、神様の戒めと知恵の実を結ぶ、信仰生活を歩んで行きませんか。
お祈り致します。
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