牧師 松矢龍造
起
皆さんは、失敗から学んだ経験はないでしょうか。また主の裁きから、学んだ経験はないでしょうか。そして敗北から学んだ経験はないでしょうか。
失敗学という学問があるそうです。日本では、誰の責任かを追及することが第一なってしまって、何が原因で失敗したかを追求することが、後手後手になってしまうと言われています。
かつて発明王で知られたトーマス・エジソンの名言に次のようなものがあります。「困ることは、次の新しい世界を発見する扉である。」イスラエルは、ペリシテ軍に、何度も敗北しました。その敗北から、自分たちの罪が、暴露されて行きます。
問題があることが問題ではなく、原因を突き止めて、解決することの方が問題です。そして主の裁きと懲らしめは、悔い改めて、主の御旨に従う機会でもあります。
承
主の御前で、悪を行い、不信仰と不従順を重ねていたイスラエルに対して、主はあえてペリシテ軍による攻撃が、イスラエルになされることを何度も許されました。それは、神様の裁きと懲らしめであり、また悔い改めて、主に立ち返る機会でもありました。
ペリシテ人とは、ノアの息子の一人で、最も不信仰であったハムの子孫にあたります。エジプトからガザに至る、地中海沿岸に定住していました。もともとギリシアのクレタ島から船で中東に移住した海の民の一派です。鉄の鍛冶職人がいて、鉄による武器を、当時、世界の中で、いち早く鉄の武器を取り入れて所持していた民族でした。
創造主なる神様は、イスラエルを罰し、懲らしめる為に、何度もペリシテ軍が、イスラエルに出撃することを、あえて許されました。私たちも、不信仰や、不従順に陥る時、創造主なる神様は、あえて試練や痛みを許されるお方です。それは、私たち自身が、悔い改めて、主に立ち返る機会でもあります。
転
4章 1~2 節「イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。」
ここで、イスラエルは、主なる神様に、出撃すべきでしょうかと、主に聴いたということが、記されていません。
神の御言葉が臨んでいた、預言者にして祭司であるサムエルを通して、神様に聞くことをしませんでした。
そのことは、次の3節でも分かります。「兵士たちが陣営に戻ると、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」
千人の戦死者を出して敗北し、主のことを、ないがしろにしていたことを、形式的ですが、思いついたのです。かつて、契約の箱を担いだ祭司たちの後を、民が続いて行き、エリコの城壁が崩れたこと。また契約の箱を担いだ祭司たちが、ヨルダン川に足を踏み入れた瞬間、ヨルダン川の底が現れて、民が渡ることが出来た、過去の奇跡にすがろうとしたのです。
しかしこの二つの例は、いずれも、主が契約の箱を進ませること命じたことが、まったく異なる点です。契約の箱は、普段は、幕屋の一番奥の至聖所に置かれていて、大祭司が年に一度、身代わりの動物の血を携えて、入ることが許されるだけです。
それを、人間の勝手な都合で、契約の箱を、戦場に持ちこめば、敵に勝利できるなど考えても、主の御旨に不従順な民と、一緒に主は共におられず、また勝利を与えることもなさらないでしょう。それは契約の箱を、幸運のお守りのように思い、利用して、彼らを敵から守ると考えていることの表われでした。それは偶像礼拝に近いものでした。
神様の臨在の象徴は、信仰と従順がない中では、神様の臨在と御力を得る保証とはなりません。神様は、ご自分の力を、ご自身の意思と知恵に従って用いられるお方です。この時のイスラエルの姿は、イスラエルの霊的な暗黒と、信仰の衰退を物語っています。
神様の御旨を求めず、勝手に主の契約の箱を戦場に持ち込んだのは、兵士たちと、共にいたエリの子であるホフニとビネハスです。ホフニとペニハスは、律法に背いて至聖所に入り、契約の箱を取り出して、主の御名を汚しました。そんな祭司がいくらいても、何の助けになりません。
契約の箱は、イスラエルの兵士たちの士気を高める為に利用されたに過ぎません。むしろペリシテ軍の方が、危機感を強めて、士気がさらに上がりました。そして戦いは、イスラエルの歩兵三万人が倒れ、契約の箱は奪われ、エリの二人の息子ホフニとペニハスは死にました。
そして知らせを聞いた父親であり大祭司エリは、二人の息子の死と、契約の箱を奪われた報告を聞くや、あおむけに落ち、首を折って死にました。そしてエリの嫁であり、ピネハスの妻は、産気づいて、男の子を産んだ後、亡くなりました。死の直前に、栄光は、イスラエルを去ったとして、男の子の名を、イカボドとしました。意味は、栄光は失われたとして、悲惨な名前となりました。
ここで「栄光」と訳された原文の言葉は、「栄誉」「誉れ」「豊かさ」「威厳」「評判」「敬愛」という意味でもあります。神様に対する、背信と罪を重ねたイスラエルは、まさに栄誉も誉も、豊かさも威厳も、評判も敬愛も失われてしまいました。
それでは、このような敗北や失敗を通して、私たちは、どんな信仰的な教訓を受け留めたらよいのでしょうか。第一に、自分に語り掛けられた、神様の言葉を聴こうとせず、またこれに応答しなければ、私たちも、エベン・エゼルにいたイスラエル人と同じであるということです。
第二に、イスラエルは、神様から離れていたのに、形式的な信仰に陥っていました。まさに形式的な信仰のみの無力さということです。それは栄光を消失してしまうことになります。
第三に、イスラエルは神様からの背き離れているにもかかわらず、昔の勝利の象徴にしがみついていました。信仰と霊的な勝利は、神様との関係を、日々新しく、生き生きと保つことが重要です。過去の栄光にすがって生きてはなりません。
第四に、罪が私たちの人生を支配する時、神様から与えられる栄光や喜び、楽しみや平安が失われます。そして空しさが襲ってきます。悔い改めの実を結ぶことが、非常に重要となります。
第五に、敗北や失敗などを通して、暴露される罪の姿があれば、素直に認めて、主の助けを求めることです。それは、主の御言葉に照らして、自分の罪に気づき、悔い改めて、主を求めることが、主の栄光と恵みに預かり続ける道です。
第六に、イスラエルの民は、契約の箱に、呪術的な魔力を期待しました。それは、偶像礼拝的であり、人は神様を自分の都合に合わせて利用しようとしても、無駄です。創造主の主権の前に、ひれ伏す態度が求められます。契約の箱に、力がなくなったのではなく、彼らに信仰がなかったのです。イスラエルの民は、罪の報いを免れたいと願いましたが、罪のそのものからの脱却することを忘れていました。自らの罪を告白し、偶像を捨て、神様に帰り、ひれ伏して、主を求める信仰が大切となります。
第七に、神様の契約の箱は、神様の臨在の象徴ですが、信仰がなければ、神様の臨在はなく、神様が共におられなければ、栄光もありません。神様が共におられないのに、契約の箱だけが、担ぎ出されたところで、何にも役に立ちません。
第八に、目を覚まして、堅く信仰に立ち、全ての栄光は、イエス様にあれ、全ての恥は、僕である自分にあれとして、信仰をもって、主を仰ぎ望みませんか。
ヘブライ人への手紙 11 章 32~34 節「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。」
結
最後に、宗教改革者の一人、ジャン・カルヴァンの「弱さを告白する理由」という内容を受け留めます。「私たちは、いつも自分の弱さを認識していなければ、自分の力を過大評価してしまいます。良い結果になったのは、自分が何かをしたからだと考えるのが、私たちの生まれもった本性です。
私たちは、自分自身に拠り頼み、横柄にも、神様の御前で自分を高くし、あたかも神様の恵みがなくても、自分の力だけで十分であるかのように振る舞います。そのような高慢を砕くには、私たちの弱さを経験させることに、まさる方法はありません。
そのため、神様は、時に恥辱や貧しさ、病などの苦難によって、私たちが苦しむことを許されます。しかし私たちは、苦難を耐え忍ぶどころか、すぐに倒れてしまいます。
そして、そのような屈辱を経験して、神様に拠り頼む方法を学ぶのです。神様の力だけが、重い苦難に耐えられるようにしてくれます。十字架の試練によって、自分を正しく知らなければ、いつでも自分の勇気や勤勉さを過信するようになるのです。
自分に対する過信は、ダビデの心にも入り込みました。『私は平安のうちに言った「私は決して揺るがされない」と。主よ、あなたはご恩寵のうちに、私を山に堅く立ててくださいました。あなたが御顔を隠されると、私はおじ惑いました。』」詩編 30 編 6~7 節。
私たちは、試練の前に置かれた時、自分の状態に気づかされます。私たちは、試練を通して、自分の弱さを思い知らされ、謙遜に、確信していた自信を捨て去り、神様の恵みに拠り頼むようになります。そうすることによって、神様の助けを経験することができるのです。」
神様に愛されている皆さん、自分の罪によって、試練や苦しみが許されたなら、砕かれて、主に立ち帰り、神様の恵みに拠り頼んで行きませんか。お祈り致します。
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