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執筆者の写真CPC K

2023.8.27サムエル記上5 章11~12 節 「創造主の御手が臨む」

牧師 松矢龍造

創造主なる神様は、私たち人間の協力を求められることもありますが、それが必要だからではありません。神様の恵みによって、人を用いようとされるからです。それは、神様によって召し集められた人々の集まりである教会が、存在している理由でもあります。

けれど、ある時は、創造主なる神様が、ただお一人で、戦われたり、ご栄光を現わされたりする時があります。今日の御言葉は、神様が、お一人で戦われることが、神の箱のことを通して、語られています。

神の箱は、契約の箱とも言われますが、モーセがシナイ山で、創造主なる神様から頂いた、十戒が刻まれた二枚の石の板を、納めた箱です。その蓋には、天使に似たケルビムという像が、対で向かい合わせになっています。そしてその蓋は、贖いの台とも言われ、大祭司が年に一度、身代わりの動物の血を携えて、神の箱が納められている至聖所に入ります。そして身代わりの血を、その台に降り注いで、民全体の罪の贖いをしました。

けれど、それは主が、身代わりの血によって罪を贖う象徴です。単に、その箱があれば、自動的に罪が赦され、戦いに勝利できるのではありません。そんな魔術的な力が、物理的な箱自体にあるわけではありません。信仰がなく、単に神の箱を持って来て、戦いに勝てると思ったのは、イスラエルでした。そして敗れたのは、神様の箱を、単に利用としたイスラエルです。その神の箱の上に、聖なるご臨在を現わされた神様が、敗れたのではありません。

単に神の箱を利用したイスラエルのあり方は、偶像礼拝に近いです。偶像礼拝は、一種のご利益宗教です。ご利益宗教は、神は人間の幸せの為に奉仕するものであると思うことであり、人間中心です。それでは、主従が逆転しています。

神様を自分の願いに従わせようとするのではなく、自分が主なる神様に従って生きることが、肝心です。キリスト者は、私の為ではなく、神様の為に生きる存在です。

ペリシテ人は、神の箱を奪い、エベン・エゼルから、アシュドドへ運び、ダゴンの神殿に運び入れました。アシュドドは、ペリシテ人の五大都市の一つです。今日のテルアビブの南、約3 00㎞で、海岸から55㎞ほど内陸に入ったと所に位置します。この都市には、彼らの信仰しているダゴンの神殿がありました。

ダゴンとは、腰らか上が女性の姿をしており、腰から下は、魚の形をしていました。それはさながら人魚のような偶像でした。もう少し言いますと、ダゴンは、雨と肥沃を司る偶像神です。元来、メソポタミアで、礼拝されていたアモリ人の神でしたが、紀元前2000

年頃までには、古代中近東全域で、広く礼拝されるようになっていました。

カナン人が、交易を通して、メソポタミアの神ダゴンを知るようになり、自分たちの神としていったと言われています。そしてペリシテ人も、カナンを征服するつれ、ダゴンを自らの神として行きました。一説によれば、ダゴンは、偶像神バアルの父であるという伝説もあります。

3節「翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面に、ダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。」

ペリシテ人は、どうして主の箱を、ダゴンの像のそばに置いたのでしょうか。それは第一の理由として、自分たちの崇めるダゴンが、イスラエルの神に、打ち勝ったことを表す為でした。そして第二の理由は、ダゴンの神からのご利益に加えて、イスラエルの神からのご利益をも得ようとしたのではないでしょうか。

ところが、主の箱の前で、ダゴンが、うつ伏せに倒れていたのは、主がペリシテ人の地で、一人、ご自身の栄光を表されたということです。ダゴンの神殿であれ、世界のどこにありましても、本当に礼拝されるべきお方は、唯一誰なのかを表されたのです。偶像の倒壊は、唯一の創造主なる神様の表れと、自己の主張です。

44節「その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。」

ダゴンの頭が、胴体と切り離されていたとありますが、頭を切り取られることは、完全な敗北を意味します。唯一の創造主なる神様は、ひとり、その神聖なることを示され、ペリシテ人を畏怖せしめられました。そしてイスラエル人が、神の箱を保護しない時、主は御自身で、それを保護されました。

55節「そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。」ダゴンの頭と両手が切り取られて敷居のところにあったとありました。敷居を踏むことを、忌み嫌う習慣は、古代近東に、広く見られます。敷居の上に、ダゴンの頭と両手があったということは、ダゴンの存在が忌み嫌われるものとなったということでしょう。

66節「主の御手は、アシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」疾病は、直接、神様の怒りとして、人に臨むものと信じられていました。この腫物とは、ネズミにつくノミが媒介する、腺ペストと考えられています。

7節8節「アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。『イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。』彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、『イスラエルの神の箱をどうしたものか』と尋ねた。彼らは答えた。『イスラエルの神の箱をガトへ移そう。』イスラエルの神の箱はそこに移された。」

彼らは、この災いを通して、直ちに、唯一の主なる神様に、立ち返ってもよかったのに、彼らは、そのようにしませんでした。イエス様によって、悪霊に取りつかれている人が、癒されたことがありました。そしてその悪霊が、豚の群れに移されて、豚が湖でおぼれ死んでしまうと、豚の所有者は、主に立ち返るのではなく、主イエス様に、立ち退いて欲しいと願ったことに似ています。

人は、たとえ全世界を得ても、真の命を損じたら、何になるでしょうか。利害損得の打算以上に、唯一真の神様を崇めて、霊魂の救いを、誰もが求めるべきです。ガラテヤの信徒への手紙55章2424節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」

契約の箱を奪ったペリシテ人は、主なる神様に勝利したと錯覚していましたが、その夢から覚めたように、自分たちの敗北だけは認めて、領主たちに計って、神の箱を、五大都市のもう一つ、ガトの地に移しました。

99~1212節「箱が移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んだ。『イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか。』

彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、そして言った。『イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。』実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達した。」

打たれた人々の非常な嘆きと、悲しみの表現がなされています。同時に、彼らは、この苦悩の原因を、彼らなりに、認識したことの表現です。

それにしても、主は、全ての人に対して、自分の罪を認めて、悔い改めることを求めておられるのではないでしょうか。しかしそれを無視するので、悔い改めを、なおざりにする者の運命を悟らせる為に、主は、裁きの御業をされたのではないでしょうか。

偶像は空しく、主なる神様と、偶像は共存出来ません。偶像とは、単に形をなしている像だけではありません。金銭や名誉、権力や歓楽など、神様を第一とすることを妨げるものは、全て偶像となりえます。そして主以外の全ての偶像を拝んではなりません。それは偶像に自分自身が、支配されてしまうことです。

また主なる神様と、偶像を並べておくなら、いばらにふさがれた草花のように、実を結ぶことはないでしょう。イザヤ書4444章66節と9節「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」

「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」

唯一の神様を侮る者が受ける報いは、ただ滅びだけです。また心の中で、御聖霊による勝利は、偶像の破壊です。そしてむしろ、悔い改めて、主に立ち返ったなら、主の証人とされましょう。イザヤ書4444章88節「恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。」

最後に、キム・ヤンジェという方の「内面の悪と向き合う」という内容を受け留めます。「人生は、戦いの連続です。そんな時は、うまく解釈することが重要です。私たちは、

絶えず、神様よりも、偶像に頼ろうとするため、神様は、その偶像を断ち切る為に、戦いを起こされるのです。

ですから、危機が来たら、『来るべきものが来た』と考えましょう。家計が崩壊していますか。もしそうだとしたら、それは富を偶像にして、思うがままに、お金を使ったからです。あるいは、私たちが、お酒を愛しているのをご覧になり、神様がお酒を買えないように、お金を断たれたのです。

私たちが、理解せず、信仰によって、正しく立っていないために、配偶者が苦しみ、子どもたちの心が病んでいるのです。しかし、私たちは、自分には過ちがなく、自分を苦しめる相手が悪いとばかり、考えて恨みます。それでは、自分の中の悪に向き合うことはできません。

どのような出来事が起こっても、自分の中の悪に目を向け、神様の御声に耳を傾け、神様がどのように語られても、聞き従う決意をしましょう。今まで握りしめてきた、偶像を手放し、神様に、完全に信頼できるようになったら、それは霊的戦いの勝利です。反対に、相手を憎んで、自分の罪を回避し続けるなら、百戦百敗です。

神様の御言葉が解釈できず、人生に戦いが起こる時、まずは自分の中の悪を直視しましょう。自分の罪を見て、神様にどうするべきか伺い、どんなことを語られても、聞き従う決心をしましょう。そうすれば、神様が私に代わりに戦ってくださいます。」

神様に愛されている皆さん、ご聖霊様に祈り、神様からの御言葉に聞き従い、偶像に勝利し行きませんか。そして素晴らしい、唯一の主なる神様の証人として、歩んで行きませんか。お祈り致します。

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