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2023.9.10サムエル記上7 章11~17 節「主を慕い求める」

牧師 松矢龍造


今日の第二礼拝において、今年の長寿者祝福式を行います。今年の特徴は、88 歳・米寿のお祝いをする対象者が、教会員の中で5 人いるということです。長寿者の方々の経験や知恵が、後輩たちに役立つことは言うまでもありません。

しかしそれだけでなく、長寿者の皆さんが、敬虔深く・信仰深く、礼拝堂に来て、礼拝を捧げている姿に、いつも励まされます。そして切に祈って下さることに大いなる力を受けます。まさに晩年の祈りの奉仕は、何よりも、主にあって有難いです。

上智大学学長も務められたヘルマン・ホイヴェルス神父が、ドイツに帰国後、南ドイツの友人から贈られた詩に、有名な「最上のわざ」があります。

「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになうーー。

若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのをみても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役にたたずとも、親切で柔和であることーー。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これに最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くためにーー。

おのれをこの世につなぐ、くさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。神は最後に、いちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだーー。

手は何もできはない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるためにーー。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』とーー。」

今日の御言葉には、祈り人、サムエルの祈りが、敵に勝利する力を主から受ける秘訣であることが記されています。

前回のサムエル記上6 章の文脈から言いますと、自分の都合の為に、神様を利用するというあり方は、偶像礼拝に近いものでした。それでは、主従が逆転しています。ミシェル・クオストという方が、「神様に聴くすべを知っているなら」という書物の中で、次のように言われています。

「子よ、きみのために、わたしはもっと求める。今までは、きみが、きみの意志どおりに行動してきたが、そういうものはもういらない。きみは、わたしの承認と支持を求め、きみの仕事に、わたしを巻き込もうとした。

子よ、わからないのか、それでは、立場が反対だ。わたしは、きみのすることを見てきた。きみの善意も見た。しかし今では、それ以上のことがほしいのだ。きみは、きみの仕事を諦めて、きみの父なる神様の意志を受け入れてくれ。子よ、『はい』と言ってくれ、わたしがこの地上にやってきたとき、マリアの『はい』が必要であったように、きみの『はい』が、いま必要なのだ。きみの仕事を進めるのは、わたしでなければならぬ。」

イスラエルの民は、ペリシテ軍との戦いにおいて、自分たちの兵士の士気を高める為に、勝手に神の箱を、幕屋の至聖所から持ち出して、戦場に持って来ました。いわば、自分の為に、神様を利用しようとして、敗北しました。時に、私たちは、神様の方法に従うのではなく、自分自身のやり方をなしたいと願います。そうすることは、この後イスラエルの初代の王となるサウルの場合と同じように、常に破滅に終わってしまいます。

罪を捨てて、悔い改めて、真剣に神様を求める時、敗北の場所は、永久の勝利の場所と変えて頂きます。今日の御言葉は、そのことを私たちに教えています。

ペリシテ人は、主の箱を移す場所、移す場所で、創造主なる神様から災いを受けるので、イスラエルの地に、主の箱を返してきました。すなわち神の箱は、幕屋のあるシロから戦場に。そして戦場から、ペリシテの地に。続いてイスラエルの地であるキルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダムの家に運び入れました。アビナダムの息子エルアザルを、聖別して、主の箱を守らせました。

それから時が20 年過ぎました。イスラエルの人々は、こぞって主を慕い求めていました。すると3 節「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。『あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。』」

神の箱ではなく、悔い改めて、主に祈り叫ぶ。それは主の助けを受ける唯一の道です。その為の第一歩は、悔い改めて、偶像を捨てるということです。偶像である異教の神々は、木や石や金属で作られたものもあれば、粘土を焼いて作られたものもありました。

ここで、そのような人間の手によって作られたものに、イスラエルの神様を収めることは出来ないものであるということが強調されています。

アシュタロトとは、アシェラとしても知られる豊穣の女神と言われています。またバアルは、所有者や主人という意味で、雷雨と豊作をもたらすと信じられていた偶像神です。バアルは時に、シリアの天候を司るハダトと同一視されることが多いです。

イスラエルの人々は、バアルとアシュタロトを取り除き、ただ主のみに仕えるようになりました。5 節6節「サムエルは命じた。『イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。』人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、『わたしたちは主に罪を犯しました』と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。」

断食は、悲しみや後悔の念を示す方法です。預言者にして祭司であり士師サムエルの使命は、民の為に祈ることです。そして民の側は、断食を持って、悔い改めることです。主を慕って嘆き、心砕け、悔いる心こそ、神様は喜ばれます。

詩編51 編1 9 節「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」

続いて7節8 節「イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。『どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。』」

かつてスコットランドの女王メリーは、主の聖徒であるジョン・ノックスの祈りを、一師団の軍隊よりも力あるとして恐れたと言います。祈りの人、サムエルの祈りが、ペリシテ人と強い軍隊を粉みじんに砕くのに十分でした。

ましてや預言者にして大祭司、王である神の御子なるイエス・キリストがおられる限り、主の御手は、我々の敵である悪魔から、我らを守られます。

9節10 節「サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。」

祈りによって叫ぶと、主も大声である雷鳴で応答されました。そしてサムエルは、石を一つとって、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、エベン・エゼル・助けの石と名付けました。

最後に、チョン・ヒョングという方の「まず自分自身を治めましょう」という内容を受け留めます。「旧約聖書に出てくるイスラエルの王たちの話は、今日生きている平凡な私たちと、あまり関係のないように見えます。しかし、彼らの話は、『統べ治める使命』を受けた私たちのための御言葉です。

私たちは、それぞれの領域において、神様の代理統治者として生きているからです。家庭や職場など、各自が置かれている領域で、神様の御心通りに治めることが出来ているでしょうか。自分の利益のために、統治権を乱用してはいないでしょうか。王の権力は、民のために使うようにと、主から委ねられたものです。

しかし、権力というものは、人を簡単に堕落させてしまいます。人は、権力を自分のために使おうとする誘惑に陥りやすいのです。誘惑に陥らないためには、権力を持った者は、他人を治める前に、自分を治めることができなければなりません。

しかし、その力は、どことから出てくるのでしょうか。権力は、自分自身から出るのではなく、神様が委ねてくださったものであることを悟るときに湧き出ます。ですから、自分自身も、王の王であられる神様の統治下にあることを忘れてはなりません。

この時代にも、王座に座っている王に見えても、実際には、貪欲や嫉妬、欲望に振り回されている奴隷がたくさんいます。神様の統治下にいなければ、神様以外のものの統治下にいる奴隷となってしまうのです。そんな悲惨な状態に陥ることがないように、神様が警告されたときに、王である神様に従わなければなりません。神様のしもべとして、神様に従う正しい関係が、統治の始まりです。ですから、先ず王になろうとする自分の欲を治めなければなりません。」

神様に愛されている皆さん、心砕かれて、主に叫び、悔い改めて、真の王の王、主の僕となって、自分の心を治めませんか。そして主を慕い求めながら、神様と隣人への愛に、ご聖霊によって生かされ、生きて行きませんか。

お祈り致します。

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