牧師 松矢龍造
起
私が学生時代の時のことです。教会の礼拝に集われているある年配のご家族から、食事のご招待を受けて、ご自宅を訪問しました。玄関に入りまして、正面の壁に聖句が記されている額がありました。その聖句には「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」とありました。私は、何十年も信仰生活を送られてきた方々なのに、いまだに、この聖句が玄関の聖句として必要なのだろうかと思いました。
食事の会話の中で、玄関にありました聖句について伺うと、 「長年、信仰生活をしてきて、どれほど、 この聖句が重要であるか、信仰の年月を重ねるごとに、その重みが分かってきています」と言われました。その時は、そんなものなのかと思いました。その後、自分自身が信仰生活の年月を重ねて来て、様々な出来事や困難さがある人生の日々において、この聖句の重みを感じています。そしてあの時、言われていた意味が、年々、深みをもって受け留められています。
承
使徒パウロは、最初の挨拶において「いつも、わたしの神に感謝しています」とあります。普通なら、開口一番、叱責に値するような事柄を多く抱えているコリントの人間集団に対して、かくも感謝の思いを冒頭において進めています。そこに、使徒パウロの聖化されている姿を見ます。手紙の受け手が、心を開いて叱責を受け入れ、変えられて行く為にも、「いつも神に感謝しています」と冒頭に展開することは、実に人間学にも長けているあり方です。 加えて、 かつての自分の罪人であった姿を思い、 そんな自分自身に対して、 主から憐みを受けた感謝の経験から とも言えます。そして感謝は、毎日表現されるべきものでもあります。
私たちは、感謝をすることを通して、私たちの心情と生活態度が変わり、一層前向きな思いとなり、愛に満ち、謙虚にさせられます。使徒パウロは、問題の多い人間集団に陥っているコリントの人間集団である教会に対して、 7 つの感謝を、手紙の冒頭にあげています。それは、私たちの信仰と人間関係において、大いなる示唆に満ちています。
転
第一の感謝は、神の恵みです。 4 節「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 」
神の恵み、それは受けるに値しない者なのに、なお神様からの愛の顧みを頂けることです。それは神様からの霊的な祝福です。行いにおいて失敗したり、罪を犯したりしているにもかかわらず、なおその存在を、あるがままで、そのままで受け入れ、変わらずに愛していただける、それが神の恵みです。この神の恵みによって、弱く、罪人であり、神様の敵であった者が、主イエス様の十字架の贖いと救いの故に、罪赦され、救いを頂いた。さらに永遠の命が与えられ、まことの人生の使命を与えて頂ける、それが神の恵みです。
かつてダビデは、姦淫の罪を犯し、殺人と偽証の罪と三重の罪を重ねました。にもかかわらず、悔い改めて、主に罪を告白し、神様の恵みに預かりました。また使徒ペトロは、三度主イエス様を否んだにもかかわらず、 復活された主の御前に、 悔い改めて、主の恵みにすがり、赦しと使命の回復を得ました。
そして使徒パウロも、かつてサウルと呼ばれていた時代に、キリスト教徒を迫害し、ステパノの石打ちにも賛成をしていました。 テモテへの手紙一 1 章 13 節「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 」
そんな迫害者サウロが、その罪を赦されて、今、使徒とされていることも、すべて神様の恵みです。この恵みが、コリントの教会の人々にも、主イエス様から与えられて故に、いつも、わたしの神に感謝していますと告げます。それは、私たちも同様です。
第二の感謝は、キリストに結ばれて、あらゆる言葉と、あらゆる知識を頂いていることです。 5節「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 」
知識があっても、言葉において拙ければ、もどかしいです。逆に、言葉巧みであっても、知識を欠いているなら危険です。 知恵と知識とに満ちた、キリストと結ばれている なら 、神様と人を知り、語ることが出来ることを感謝いたします。昔、十代の頃のことです。父が、私の言葉を聴いて、 父が長い年月を経て得た知識を、どうして知っているのかと 尋ねられた時がありました。それは、キリストに結ばれて、神様から の言葉である聖書の御言葉から、 真の知識を受けたからでした。
第三の感謝は、キリストについての証しの故です。 6 節から 7 節の前半です。「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく 」。
この時、コリントの教会の人々は、賜物を用いて、神様に仕える代わりに、どの賜物が、より重要であるかをめぐって議論していました。それでも、神様からの賜物を用いて、キリスト についての証しがなされていたので、キリストが確かにされ、救われる人々が起こされていました。そのことを使徒パウロは、感謝していました。
第四に、キリストの再臨を感謝していました。 7 節後半です。「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 」使徒パウロは、復活され、天に昇られたキリストが、再び、地上に来てくださる、いわゆる再臨があると信じていました。フィリピの信徒への手紙 3 章 20 節「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っていま す。 」
しかも、そのことが、すぐに起こる事を期待していました。フィリピの信徒への手紙 4 章 5 節「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 」キリストが再びこられるその日、イエス様が、信仰者に対して、救いを完成してくださる。それ故に、感謝したのです。
第五に、主が私たちを、日々、変え続けて、やがて非のうちどころのない者にしてくださるから感謝しました。 8 節「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいま す。 」コリントの教会には、様々な問題があり、罪が未処理にされているものもありました。 しかし、主は、私たちを造り変え続け、聖化してくださる。そして最後には、非の打ちどころのなす者としてくださるから、使徒パウロは、感謝しました。
フィリピの信徒への手紙 3 章 21 節「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 」
さらに第六に、神様の真実に感謝しています。 真実な神様は、 私たちに対して、耐えられない試練は許されません。また試練と同時に脱出の道を備え、 そして試練に打ち勝たせて下るお方です。コリントの信徒への手紙一 10 章 13 節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 」
そして第七に、 キリストの交わりに入れて頂いていることを感謝しています。 9 節「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 」主キリストとの交わりに入れられることは、 神の子とされるので、 どんなに幸いなことでしょうか。
私たち長老教会のルーツであります、宗教改革者の一人、 ジャン・カルヴアンは言います。「キリストが、わたしたちのものとされ、わたしたちもまた、 キリストの体に接がれることこそ、福音の究極だからである。」「要するに、クリスチャンは、自分だけをながめるとき、自分の持っているものは、ただ恐ろしくなることばかりであり、絶望の他にないのである。
しかし、一たん、キリストとの交わりに召された上は、救いの確かさが問題になっても、自分はただイエス・キリストの肢体なのだと 思い、 そのほかのことは考えてならない。彼は、キリストのすべての幸いを自分のものとして持つ者となるからである。こうして、いわば自分が『滅びの危険の外に立ちたもうおかた』の肢体とされたと 思えば、最後まで耐え忍ぶことのできる確かな希望が、 心にいだかれることは、疑いがない。」
そしてキリストとの交わり中に入れられたなら、他の人々とも、キリストにあって、不完全な者たち同士であっても、 主の恵みと赦しの中で、 互いに交われます。この教会の交わりにも入れられるので、感謝なこととなります。
結
神の賜物と召命は、変わることがありません。どんなに個人と教会に問題や課題があっても、主が真実に造り変え続けてくださいます。ローマの信徒への手紙 11 章 29 節「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 」この感謝の中で、私たちは他のこと は沈黙して、ただ神様に礼拝を捧げて行きませんか。
最後に、感謝の讃美として、讃美歌 85 番の歌詞を受け留めて閉じます。「主のまことは、荒れた磯の岩、さかまく波にも、などか動かん。くすしきかな、あまつ御神、げに尊きかな、とこしえの主。
主のめぐみは、浜のまさご、その数いかでか、計りうべき。うつくりゆく世、さだめなき身、ただ主に頼りて、安きをぞえん。つもれる罪、ふかきけがれ、ただ主を仰ぎて、救いをぞえん。くすしきかな、あまつ御神、げに尊きかな、とこしえの主」。お祈り致します。
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