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2024.12.1コリントの信徒への手紙一 1 章 21~25 節 「神の力、神の知恵であるキリスト」

牧師 松矢龍造


今日の主日から、アドベント・待降節に入ります。12 月 25 日のクリスマスへの備えとし て、四つの日曜日の主日を数えることになります。しかも、私たちが、待ち望むのは、一度 2000 年前に、天から地上に来られたキリストを覚えながら、やがて世の終末において、再び 天から地上に来られる、再臨のキリストを待ち望みます。 それにしても、毎年、待降節であるアドベントを設ける意味は何でしょうか。それは、こ の世界から、キリストを除こうとする世俗化に対抗すべく、私たちの内外に、キリストの力 と知恵を覚える為です。そして私たちは、確信をもって、この素晴らしいキリストを、来て 見てくださいと、世に証しする、大いなる機会とする為でもあります。 世とは、時に、使徒パウロが指摘するように、神様に敵対するものを代表するものとなる 場合があります。ローマの信徒への手紙 12 章 2 節「あなたがたは、この世に倣ってはなり ません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善い ことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを、わきまえるようになりなさい。」

それにしても、神の御子は、どうして神でありながら、人となられる必要があったのでし ょうか。世に聖人と言われる人々がいます。ギリシアでは、ソクラテス、プラトン、アリス トテレス。アジアでは、釈迦、孔子、老子。日本では、最澄、空海、親鸞などが聖人と言わ れます。 けれど、メシア・救い主となれるのは、完全に神であり、完全に人でないとなれません。 先ず神様は永遠のお方です。私たちの罪の身代わりとなって、十字架について死ぬ為には、 人間の姿になる必要がありました。また、神様でなければ、罪が一つもない存在ではありえ ません。もし罪ある存在なら、私たちの罪の身代わりとなることは出来ず、自分自身の罪の 故に、裁かれるだけです。そして神様でなければ、復活することは出来ません。 加えて、神様が、人となられなければ、永遠に存在する故に、肉眼で見ることが出来ない 神様の本質を、私たち人類は、明確に知ることが出来ません。 ヨハネによる福音書 1 章 18 節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにい る独り子である神、この方が神を示されたのである」。これら故に、キリストは、神の力、 神の知恵なのです。

それでは、今日の御言葉である 1 章 21 節からもう一度。「世は自分の知恵で神を知ること ができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手 段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」ここで、使徒パウロは、宣教の ことを「愚かな手段」と言っています。 どうしてなのでしょうか。宣教とは、素晴らしい手段なのではないでしょうか。「愚かな」 と訳された原文の言葉は、「ばからしい」という意味でもあります。それ故に、「宣べ伝えら れた福音のばからしさ」と訳しているものもあります。父なる神様は、人類に対して、新し い命をもたらす手段として、この世的には、挫折にさえ見える、キリストの十字架を選ばれ ました。 この世の知恵では、神様が、最も素晴らしい手段を選ばれると期待していた者たちにとっ ては、十字架は愚かに思えました。さら言えば、このキリストは、名門の祭司や律法学者た ちの生まれでなく、貧しく平凡な大工の子として生まれ、僕として来られました。ですから、 今でも、キリストの福音は、多くの人々には、愚かに聞こえます。 そしてもう一つ、宣教の為に用いられるのは教会です。教会とは、神様によって召し集め られた者たちの集まりのことです。けれど、教会に集められた者たちは、みな不完全な者た ちです。神様は、この不完全な者たちの集まりである教会を用いられるので、宣教の愚かさ とも言えます。 ある伝説に、十字架にかかり復活されたキリストが、天に戻られた時のことがあります。 天使たちは、イエス様の犠牲の労苦を称えながら、質問しました。「あの地上に残してきた 不完全な弟子たちに、キリストの福音宣教を任せてこられて大丈夫ですか」。これに対して キリストは、「彼らを用いることのほか、他の考えはないと」と答えらけれたというのです。 それは、後に父なる神様と、御子キリストから遣わされる、ご聖霊なる神様が、弟子たちに 力を与えるから、大丈夫だということです。 使徒言行録 1 章 8 節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そし て、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わ たしの証人となる。」 続いて 22 節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが」。多くのユダヤ 人は、イエス・キリストの福音を愚かなものと思いました。その理由は、イエスは、十字架 から降りるという奇跡を行わなかった。またダビデの王位を回復して、ローマ帝国を滅ぼす 奇跡を行わなかった。そして、罪人として十字架で処刑されてしまっただけではないかと思 っていた故です。 またギリシア人も、キリストの福音を愚かであると思いました。ギリシア人は、肉体の復 活を信じません。またギリシア神話の神々の特性を、イエス様に認めません。そして十字架 刑にされる人を軽蔑しました。加えて、ギリシア人にとっては、死は敗北であり、勝利では ありませんでした。 けれど、自分の知恵に、依り頼む者は、真の神と、救いを知ることが出来ません。この世の理屈では、神様も救いも分かりません。自分の罪を悔い改める人のみ、知ることが出来ま す。さらに救いも、人の知恵や力によっては出来ません。唯一、キリストによってのみ成し 遂げられるものです。神様による救いは、人の知恵や力では、出来ないことを成し遂げられ ます。それが良きおとずれ・Good news・福音です。 続いて 23 節「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわ ち、ユダヤ人には、つまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが」。ユダヤ人は、肉の 望みに従って奇跡を求めました。また異邦人は、人類の罪の為に、キリストが死なれたとい う教えは、信じない者にとっては、愚かなことに思われました。 しかし、使徒パウロも、私たち教会も、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 使徒言行録 4 章 12 節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われ るべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです」。 さらに続いて 24 節「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の 力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」 使徒パウロは、今まで「救われる者」と表現してきたことを、この節では「召された者」 と言い換えています。召しとは、父なる神様が、永遠の昔において、御旨によって選び、将 来救われ、聖化され、栄化すべく、予定した者を、この世において、福音によって、信仰を 与えるということです。いわば、「召された者」とは、神様の選びの、この世における具体 化のことです。私たちの行いや立派さではなく、キリストを信じる信仰を通して、神様が救 いをなしてくださることに召された者のことです。 エフェソの信徒への手紙 1 章 4 節 5 節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自 分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエ ス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。 神様は、救いを得ようとして、律法を守り努力する人たちではなく、恵みによって、キリ ストを信じる信仰を持つ人たちに、御国を示されました。律法を完全に守り、救いを得るこ との出来る義人は、一人もいません。キリストは、偉大な力であり、私たち人類が救われる ための、唯一の道です。 キリストは、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に下られ ました。しかし、イエス様は、死に留まっておられませんでした。イエス様の復活は、死さ えも支配する神様の御力の証拠となりました。私たちが、このキリストを救い主として、ま た王の王、主の主として信頼するなら、イエス様は、私たちを永遠の死と滅びから救い、永 遠に続く命を与えてくださいます。 このキリストの申し出を、単純に素直に信じ受け入れる、いわば「愚かな」人々は、実際 には、神様の御前で、全ての人たちの中で、最も賢い者と見られています。この人々だけが、 神様と共に、永遠に生きるからです。 そして 25 節「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神様の本 質は、人間の知恵ではなく、神様の啓示によって知られるものです。それはへりくだる者に だけ知らされます。マタイによる福音書 11 章 25 節「そのとき、イエスはこう言われた。『天 地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠し て、幼子のような者にお示しになりました。』」 さらに神様の弱さは、人よりも強いと悟る者は、私たちが弱い時に、強くされることを知 ります。コリントの信徒への手紙二 12 章 9 節 10 節「すると主は、『わたしの恵みはあなた に十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリ ストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリ ストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

キリストを信じるとは、十字架によって現わされた、神様の愚かさと弱さが、人間の知恵 と力に勝って、真の救いをもたらす、知恵と力であることを信じることです。キリストを個 人的に知ることは、誰でも受けることの出来る、最も大いなる知恵です。その知恵は、英知 であり、至高の知恵です。むしろ、この世の知恵は、この宣教の愚かさによって、無効にさ れます。 父なる神様の独り子である、キリストの十字架の犠牲によって、罪人を救う神様の姿は、 愚かで弱々しく見えますが、この神様の愚かさは、人間の愚かさよりもはるかに賢いです。 また神様の弱さは、人間の弱さよりも、はるかに強いです。 さらにキリストを信じる、それは悔い改めて、キリストを人格的に信頼して、従順に従う ことです。最後に、キム・ヤンジェという方の「価値観が変わる悔い改め」という内容を受 け留めます。「まことの悔い改めには、罪の告白と、罪から立ち返る行動が必要です。今ま で支配されてきた、この世の王のもとを離れ、『これからは、神様だけを、王として仕えま す』という告白と、生活の変化がなければなりません。 ですから、ただ救われることだけを求めてはいけません。道を誤ったとき、祈って神様の 助けを求める前に、まず神様の御言葉に耳を傾けて、礼拝をささげるべきです。助けてほし いと祈り求めるばかりでは、まことの悔い改めはできず、完全な解決を得ることはできませ ん。 私が仕えている教会は、告白がすばらしいと評判になっています。しかし、告白で終わっ ていてはならず、適応にまで進まなければなりません。『私が間違っていました』と告白す るだけでなく、生き方に変化がなければなりません。罪を抽象的に悔い改めても、人生は変 わりません。今日、あなたは、どのような状況にいても、最も正しい適応は、神様を求める 努力をすることであり、価値観が変わることです。 価値観が変われば、どんな状況でも、心に平安があります。価値観が変わることを願い、 悔い改めて叫ぶなら、神様は決して私たちを見捨てられません。神様は、ご自分の名の故に、 私たちを守ってくださいます。」 神様に愛されている皆さん、神様に礼拝を捧げ、神様の御言葉を通して、ご聖霊によって、 価値観が変えられ、悔い改めて、主に叫んで行きませんか。この世の知恵ではなく、世には 愚かに見えても、キリストは神の力、神の知恵です。このキリストの力と知恵に生かされ、 生きて行きませんか。お祈り致します

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