牧師 松矢龍造
起
今日の主日から、アドベント・待降節に入ります。12 月 25 日のクリスマスへの備えとし て、四つの日曜日の主日を数えることになります。しかも、私たちが、待ち望むのは、一度 2000 年前に、天から地上に来られたキリストを覚えながら、やがて世の終末において、再び 天から地上に来られる、再臨のキリストを待ち望みます。 それにしても、毎年、待降節であるアドベントを設ける意味は何でしょうか。それは、こ の世界から、キリストを除こうとする世俗化に対抗すべく、私たちの内外に、キリストの力 と知恵を覚える為です。そして私たちは、確信をもって、この素晴らしいキリストを、来て 見てくださいと、世に証しする、大いなる機会とする為でもあります。 世とは、時に、使徒パウロが指摘するように、神様に敵対するものを代表するものとなる 場合があります。ローマの信徒への手紙 12 章 2 節「あなたがたは、この世に倣ってはなり ません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善い ことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを、わきまえるようになりなさい。」
承
それにしても、神の御子は、どうして神でありながら、人となられる必要があったのでし ょうか。世に聖人と言われる人々がいます。ギリシアでは、ソクラテス、プラトン、アリス トテレス。アジアでは、釈迦、孔子、老子。日本では、最澄、空海、親鸞などが聖人と言わ れます。 けれど、メシア・救い主となれるのは、完全に神であり、完全に人でないとなれません。 先ず神様は永遠のお方です。私たちの罪の身代わりとなって、十字架について死ぬ為には、 人間の姿になる必要がありました。また、神様でなければ、罪が一つもない存在ではありえ ません。もし罪ある存在なら、私たちの罪の身代わりとなることは出来ず、自分自身の罪の 故に、裁かれるだけです。そして神様でなければ、復活することは出来ません。 加えて、神様が、人となられなければ、永遠に存在する故に、肉眼で見ることが出来ない 神様の本質を、私たち人類は、明確に知ることが出来ません。 ヨハネによる福音書 1 章 18 節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにい る独り子である神、この方が神を示されたのである」。これら故に、キリストは、神の力、 神の知恵なのです。
転
それでは、今日の御言葉である 1 章 21 節からもう一度。「世は自分の知恵で神を知ること ができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手 段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」ここで、使徒パウロは、宣教の ことを「愚かな手段」と言っています。 どうしてなのでしょうか。宣教とは、素晴らしい手段なのではないでしょうか。「愚かな」 と訳された原文の言葉は、「ばからしい」という意味でもあります。それ故に、「宣べ伝えら れた福音のばからしさ」と訳しているものもあります。父なる神様は、人類に対して、新し い命をもたらす手段として、この世的には、挫折にさえ見える、キリストの十字架を選ばれ ました。 この世の知恵では、神様が、最も素晴らしい手段を選ばれると期待していた者たちにとっ ては、十字架は愚かに思えました。さら言えば、このキリストは、名門の祭司や律法学者た ちの生まれでなく、貧しく平凡な大工の子として生まれ、僕として来られました。ですから、 今でも、キリストの福音は、多くの人々には、愚かに聞こえます。 そしてもう一つ、宣教の為に用いられるのは教会です。教会とは、神様によって召し集め られた者たちの集まりのことです。けれど、教会に集められた者たちは、みな不完全な者た ちです。神様は、この不完全な者たちの集まりである教会を用いられるので、宣教の愚かさ とも言えます。 ある伝説に、十字架にかかり復活されたキリストが、天に戻られた時のことがあります。 天使たちは、イエス様の犠牲の労苦を称えながら、質問しました。「あの地上に残してきた 不完全な弟子たちに、キリストの福音宣教を任せてこられて大丈夫ですか」。これに対して キリストは、「彼らを用いることのほか、他の考えはないと」と答えらけれたというのです。 それは、後に父なる神様と、御子キリストから遣わされる、ご聖霊なる神様が、弟子たちに 力を与えるから、大丈夫だということです。 使徒言行録 1 章 8 節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そし て、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わ たしの証人となる。」 続いて 22 節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが」。多くのユダヤ 人は、イエス・キリストの福音を愚かなものと思いました。その理由は、イエスは、十字架 から降りるという奇跡を行わなかった。またダビデの王位を回復して、ローマ帝国を滅ぼす 奇跡を行わなかった。そして、罪人として十字架で処刑されてしまっただけではないかと思 っていた故です。 またギリシア人も、キリストの福音を愚かであると思いました。ギリシア人は、肉体の復 活を信じません。またギリシア神話の神々の特性を、イエス様に認めません。そして十字架 刑にされる人を軽蔑しました。加えて、ギリシア人にとっては、死は敗北であり、勝利では ありませんでした。 けれど、自分の知恵に、依り頼む者は、真の神と、救いを知ることが出来ません。この世の理屈では、神様も救いも分かりません。自分の罪を悔い改める人のみ、知ることが出来ま す。さらに救いも、人の知恵や力によっては出来ません。唯一、キリストによってのみ成し 遂げられるものです。神様による救いは、人の知恵や力では、出来ないことを成し遂げられ ます。それが良きおとずれ・Good news・福音です。 続いて 23 節「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわ ち、ユダヤ人には、つまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが」。ユダヤ人は、肉の 望みに従って奇跡を求めました。また異邦人は、人類の罪の為に、キリストが死なれたとい う教えは、信じない者にとっては、愚かなことに思われました。 しかし、使徒パウロも、私たち教会も、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 使徒言行録 4 章 12 節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われ るべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです」。 さらに続いて 24 節「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の 力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」 使徒パウロは、今まで「救われる者」と表現してきたことを、この節では「召された者」 と言い換えています。召しとは、父なる神様が、永遠の昔において、御旨によって選び、将 来救われ、聖化され、栄化すべく、予定した者を、この世において、福音によって、信仰を 与えるということです。いわば、「召された者」とは、神様の選びの、この世における具体 化のことです。私たちの行いや立派さではなく、キリストを信じる信仰を通して、神様が救 いをなしてくださることに召された者のことです。 エフェソの信徒への手紙 1 章 4 節 5 節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自 分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエ ス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。 神様は、救いを得ようとして、律法を守り努力する人たちではなく、恵みによって、キリ ストを信じる信仰を持つ人たちに、御国を示されました。律法を完全に守り、救いを得るこ との出来る義人は、一人もいません。キリストは、偉大な力であり、私たち人類が救われる ための、唯一の道です。 キリストは、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死なれ、墓に葬られ、陰府に下られ ました。しかし、イエス様は、死に留まっておられませんでした。イエス様の復活は、死さ えも支配する神様の御力の証拠となりました。私たちが、このキリストを救い主として、ま た王の王、主の主として信頼するなら、イエス様は、私たちを永遠の死と滅びから救い、永 遠に続く命を与えてくださいます。 このキリストの申し出を、単純に素直に信じ受け入れる、いわば「愚かな」人々は、実際 には、神様の御前で、全ての人たちの中で、最も賢い者と見られています。この人々だけが、 神様と共に、永遠に生きるからです。 そして 25 節「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神様の本 質は、人間の知恵ではなく、神様の啓示によって知られるものです。それはへりくだる者に だけ知らされます。マタイによる福音書 11 章 25 節「そのとき、イエスはこう言われた。『天 地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠し て、幼子のような者にお示しになりました。』」 さらに神様の弱さは、人よりも強いと悟る者は、私たちが弱い時に、強くされることを知 ります。コリントの信徒への手紙二 12 章 9 節 10 節「すると主は、『わたしの恵みはあなた に十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリ ストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリ ストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
結
キリストを信じるとは、十字架によって現わされた、神様の愚かさと弱さが、人間の知恵 と力に勝って、真の救いをもたらす、知恵と力であることを信じることです。キリストを個 人的に知ることは、誰でも受けることの出来る、最も大いなる知恵です。その知恵は、英知 であり、至高の知恵です。むしろ、この世の知恵は、この宣教の愚かさによって、無効にさ れます。 父なる神様の独り子である、キリストの十字架の犠牲によって、罪人を救う神様の姿は、 愚かで弱々しく見えますが、この神様の愚かさは、人間の愚かさよりもはるかに賢いです。 また神様の弱さは、人間の弱さよりも、はるかに強いです。 さらにキリストを信じる、それは悔い改めて、キリストを人格的に信頼して、従順に従う ことです。最後に、キム・ヤンジェという方の「価値観が変わる悔い改め」という内容を受 け留めます。「まことの悔い改めには、罪の告白と、罪から立ち返る行動が必要です。今ま で支配されてきた、この世の王のもとを離れ、『これからは、神様だけを、王として仕えま す』という告白と、生活の変化がなければなりません。 ですから、ただ救われることだけを求めてはいけません。道を誤ったとき、祈って神様の 助けを求める前に、まず神様の御言葉に耳を傾けて、礼拝をささげるべきです。助けてほし いと祈り求めるばかりでは、まことの悔い改めはできず、完全な解決を得ることはできませ ん。 私が仕えている教会は、告白がすばらしいと評判になっています。しかし、告白で終わっ ていてはならず、適応にまで進まなければなりません。『私が間違っていました』と告白す るだけでなく、生き方に変化がなければなりません。罪を抽象的に悔い改めても、人生は変 わりません。今日、あなたは、どのような状況にいても、最も正しい適応は、神様を求める 努力をすることであり、価値観が変わることです。 価値観が変われば、どんな状況でも、心に平安があります。価値観が変わることを願い、 悔い改めて叫ぶなら、神様は決して私たちを見捨てられません。神様は、ご自分の名の故に、 私たちを守ってくださいます。」 神様に愛されている皆さん、神様に礼拝を捧げ、神様の御言葉を通して、ご聖霊によって、 価値観が変えられ、悔い改めて、主に叫んで行きませんか。この世の知恵ではなく、世には 愚かに見えても、キリストは神の力、神の知恵です。このキリストの力と知恵に生かされ、 生きて行きませんか。お祈り致します
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