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箴言 18 章 1~11 節「真の頼みと空しい頼み」2023.10.11

牧師 松矢龍造

私たちは、何を頼みとしているでしょうか。今日の御言葉には、11 節「財産は金持ちの砦、自分の彫像の、そびえる城壁」とあります。人は、財産やお金を、自分の砦や城壁と考えやすいかもしれません。箴言では、しばしば、人が財産やお金に頼ることの空しさが語られています。愚かな金持ちは、神様よりも、自分の財産に頼ります。 財産家は、自分の財産を、そそり立つ安全な城のように思っていますが、人間にとって、本当の安全な城や砦は、創造主なる神様御自身です。10 節「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。」 もちろん富を目的とするのではなく、祝福の実として富を見るなら、お金を通して、神様の栄光を現わし、人を助けることも出来ます。むしろ神の国と神の義をひたすら求めて、富に正しく処する歩みとなりますように。 他の御言葉では、詩編 18 編 2~4 節「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場。わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」 46 編 8 節「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」 62 編 7 節「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」 91 編 1~7 節「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ。『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。 神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。」 そして新約聖書ローマの信徒への手紙 8 章 31 節 32 節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 災いの多い人生です。主の御名に依り頼むことが、真の安全です。安全は急がれますし、命の問題もあります。主に走り込むことは、安全には、走り込むとい熱心さも必要となります。 今日の御言葉に多く出てまいりますのは、人との関係が多く出てきます。いわば、人との関係を集めた箴言と言えます。そして 4 節以下には、口や唇や舌のことが展開されています。4 節「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」6節~8節「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。愚か者の口は破滅を、唇は罠を自分の魂にもたらす。陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く。」 言葉には力があり、善を生み出せば、悪も生み出します。知恵をもって語られた言葉は、語り手の聡明さを示します。しかし無知な言葉は、語り手に破滅をもたらします。神様を恐れない者、認めない者は、自分の意見しか言いません。また神様の守りを知らない人は、自分の考えを、くつがえされることほど、恐ろしいものはないので、自分に固執します。 そして今日の御言葉の中心としてとらえたいのは、1 節です。「離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。」自分を周囲の人々から切り話す者の愚かさということです。 己を閉ざす者や、人から離反する者は、人と交わりをしません。そして自分のことしか考えません。離反すると訳された原文の言葉は、「離れ去る」とか「分ける」という意味でもあります。離反する者は、人間関係を大切にしないで、利己主義になる危険があります。そして物質的欲望のみを求める危険にも繋がります。利己主義者は、健全な知性を受け入れようとせず、自己を閉ざしてしまうので、将来に対しても、希望がなくなってしまいます。 コヘレトの言葉に、二人は一人に優るとあります。4 章 9 節~11 節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」 古代の神学者であるアウグスティヌスの言葉にこうあります。「大事においては一致、小事においては自由、すべての事においては愛。」イエス様は、二人、三人が共にいて祈ることの大切さを説いています。マタイによる福音書 18 章 19 節 20 節「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 共同は力です。ですから、私たちは、人に対して軽々しく善悪を言うことは慎み、みだりに他の人を裁くことがありませんように。たとえ結婚相手であっても、愛の対象と見ずに、財産、地位、セックスなど、自分の欲望を満足させるための手段として見てしまうことのないように。 加えて自分の心を閉じてしまうことは、劣等感や挫折感、独り善がりの独善家に陥りやすいです。自分は良いと思っても、人から捨てられてしまいます。交わりの専門家であるボンヘッファーは、二つの危険を言っています。「われわれは、次のことを知る。われわれは、交わりの中にいる時のみ、一人でいることができる。そして、一人でいることのできる者だけが、交わりの中にいることもできるのである。 この二つのことは、互いに関係しているのである。ただ交わり中でのみ、われわれは正しく一人あることを学ぶのであり、ただ一人のであることにおいてのみ、正しく交わりの中にいることを学ぶのである。 交わりの中にいることも、一人でいることも、それぞれにおいて、深い淵と危険がある。一人でいることなしに、交わりを望む者は、言葉と感情の空しさに陥り、交わりなしに、一人でいることは、虚栄心と自己陶酔の絶望の深みに落ちて、滅びるのである。」 主イエス様は、私の罪の為に、十字架にかかってくださいましたが、しかし私たちと折が悪い人の為にも、主イエス様は、十字架で死んでくださいました。あらゆる関係の間に、キリストとその十字架の愛があることが、交わりにおいて必要なことです。 ヨハネの手紙一 1 章3節 4 節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」

最後に、先ほどのボンヘッファーの交わりに関する記述をもう少し、味わって閉じたいと思います。「交わりと孤独」というテーマです。「多くの者は、一人でいることを恐れて、交わりを求める。彼らは一人でいることに耐えられが、その焦繰感ゆえに、人々の中へ入って行くのである。自分自身に満足出来ないキリスト者も、他の人々との交わり中で、助けを得たいと願う。

ところがたいていの場合、彼らはその交わりに失望し、本当は自分の責任なのに、その交わりを非難し始めるのである。自分自身から逃避して、交わり中に入ってくる者は、そこを、おしゃべりと気晴らしのための場所と勘違いし、しかもそのおしゃべりや気晴らしを、非常に精神的なこととみなすのである。

しかし彼は、本当は、交わりを求めているのではなく、ほんのひととき、自分の孤独を忘れさせてくれる陶酔状態を求めているに過ぎない。そしてその陶酔状態は、人間にとって、致命的とも言える本当の孤独を生み出すのである。一人でいることの出来ない者は、交わりに入ることを用心しなさい。


一人でいることの出来ない者は、自分自身を傷つけ、交わりを傷つけるだけである。神様があなたを呼んだ時、あなたは、一人神様の前に立ったのではなかったか。一人で、あなたはその召しに従わなければならなかったのではないか。一人で、あなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかったのではないか。そして、やがて、一人で、あなたは死に、一人で神様の前に立ち、申し開きをすることになるであろう。


あなたは、自分自身から逃れることは出来ないのだ。なぜなら、他の誰でもなく、神様こそが、あなたを選び出したのだから。もしあなたが一人でいることを望まないなら、それは、あなたに対するキリストの召しを否定することになるであろう。それでは、あなたは、召された者の交わりと何の関りも持つことができなくなるのだ。

しかしこれとは、逆の命題も真実である。交わりの中にいない者は、ひとりでいることに用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。その召しは、あなた一人に向けられたものではない。

あなたは、召された共同体の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたは、一人ではないのだ。死の時を迎え、裁きの日が来ても、あなたはイエス・キリストの大きな共同体の一員なのである。あなたが兄弟の交わりを軽蔑するなら、あなたはイエス・キリストの召しを否定することになり、あなたが一人でいることは、災いとなるだけであろう。」

神様に愛されている皆さん、空しいものに頼らず、真の頼みである神様と一人交わる時と、その交わりの恵みを持って、教会共同体である兄弟姉妹と交わることは、二つながらイエス・キリストの召しです。この縦と横の交わりの両方のバランスと総合を、ご聖霊様によって、可能とされ、二つの交わりに生かされ、生きて行く歩みをして行きませんか。お祈り致します。



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